<韓国 ユン邸>
 
全ての音を吸い込んで、無音の先の真空の中にあるような、雪降り積もる深夜のこと。
 
祖父と二人暮らし(正確には沢山の使用人がいるのだけれど)には、少しばかり?だだっ広い邸のありえないほどの騒がしさに、寝起きの悪さに定評のあるジフですら到底寝ていられず、わずかな苛立ちを覚えたのは一瞬のこと。
通常では考えられないスピードで覚醒したジフは傍らのナイトガウンを羽織ると自室を飛び出した。
 
「カン室長!お爺様になにかあったのかっ!?」
 
ジフの祖父、ユン・ソギョンの第一秘書を視界の端に捉えたジフはその長身を素早く転回させると、大きなストライドで近づき、その琥珀色の瞳を深い恐怖に揺らめかせながら尋ねた。
 
普段殆ど表情に感情を乗せる事のないこの若く秀麗な次期当主の、これ程までの動揺を目の当たりにして、カン室長は彼の肉親との縁の薄さを改めて思い知り胸が詰まり、そんな自身を隠すように面を下げた。
 
「いいえ、ジフ様。会長に何か起きたわけではございませんのでご安心ください。ですが、会長のご指示でこの邸にある方をお預かりすることになりまして、少々その準備をしておりまして・・・
お休みのところお騒がせしてしまい申し訳ございません。」
 
「こんな時間に・・・客?それに、準備って・・・これは・・・」
 
病院のICUがそっくり移動してきたのかと思うような医療設備が運び込まれてゆく様は、異様としか思えない。そして明らかに医療従事者と思われる人間の数もちょっとした総合病院並みだ。
 
よく見てみると、そういった人々にまぎれて目つきの鋭い男女が数名、ひっそりと、しかし一分の隙もなく控えているのに気付く。
 
 
あれはおそらく要人警護クラスの特殊SPだ。
 
いったい・・・何が、起きているんだ?
 
 
徐にスーツの内ポケットから震えている携帯を出したカン室長は、呆然とするジフを横目に話し出す。
 
「はい、会長。全てご指示の通りに整いました。・・・はい。かしこまりました。そのように手配いたします。それで、会長。ただ今ジフ様がいらっしゃるのですがご説明は・・・・?はい。かしこまりました。」
 
通話相手が祖父と知り、その会話に意識を傾けつつも状況を把握しようと観察していたジフに、通話を終えたカン室長が向き直る。
 
「ジフ様。もう間もなく会長が帰宅されます。全ては会長自らご説明されるそうです。おそらく込み入ったお話になるかと思われます。一旦お部屋にお戻りになり、暫しお休みになられてはいかがですか?」
 
邸内の様子に気をとられていたジフは、その言葉で不意にカン室長に目を向けると、そこにはまるで父がいたらこうだったろうかと思うような、幼子を心配するような優しい目が自分を見つめていて、無意識に詰めていたらしい息を吐き出す。
 
寝起きの頭に理解を超える緊張は、ここ最近のボーッとした生活に慣れすぎてしまった俺には少し持ち重りするようだ。と、いつも騒がしい友人達や、騒動に巻き込まれてばかりいた数ヶ月前までの自分を思い出し、自嘲ともとれるような笑みをこぼしながらも
 
「大丈夫。取りあえず、これじゃマズイだろうから着替えてくるよ。カン室長、お茶でも入れてこようか?少し落ち着くよ?」
 
と答えるジフは既にいつもの冷静さを取り戻しており、にこやかに「それでは、そういたしま・・・」しょうか?と答える言葉を最後まで発せず、カン室長の顔は驚愕に引きつった。
 
視線を追って振り向いたジフの目に映されたものは、瞬間それが何か理解するのに躊躇われる程衝撃的な姿でそこにあった。
 
人。それもおそらく少女。
 
顔面の半分近くが紫色の絵の具をぶちまけたのかと思うほどの、いっそ鮮やかな蒼に染まり、ここまで腫れられるのか?と思われるほどに腫れていて、口元には血痕の痕。
 
キャスターで運ばれてきたその姿はまるで死体のようで、生命力を感じさせない程白く小さい。
 
病室のような設えになった部屋に運ばれベッドへの移動の際に僅かに覗いたその姿は、最初の衝撃を軽く上回り、見るものを恐怖に誘うほどの様相を呈していた。
 
肩から先の両腕は不自然に捩れ、両手足の先にはホラー映画かと見まごうような、人の手の形をした紫斑がいくつも浮き上がっている。
 
最初は人形かとも思ったが、だとしてもグロテスクで悪趣味すぎる。それ程に有り得ない、そう、『有り得ない』としか言いようのない、人間の思考を凍らせてしまう程の破壊力のある壮絶な姿だった。