コン内官からの報告を聞いた皇帝は、蒼白となって聞き返した。
「それは、誠か?ヘミョンが、ファヨンの指示でシンに砒素入りのオレンジジュースを、
飲ませたというのか?」
「左様にございます。陛下。」
「それ・・で・・・。ヘミョンは、砒素が毒だという事を知っていたのか?」
「ヘミョン様はご存じなかったと仰っておられます。」
「ならば、知らなかったのだな?」
長年、自分の右腕とも言うべき働きをしてきたその内官の、僅かに躊躇する姿を認めた皇帝は
自分の疑問が否定された事を悟り、遣る瀬無い溜息を吐いた。
親友であるソギョンから、緊急と称して報告された内容は皇帝の想像を絶する内容で
まさか、守るべき孫を脅かすのも、また孫の1人だったとは思いもよらない事であった。
「コン内官・・・。儂は、今まで皇帝である事を悔やんだ事も数限りなくあったが
今日ほどこの地位を、恨んだ事は無い。まだ頑是ない子供が、その弟を手にかけようなどと
それを唆し、手引きする大人が当たり前のように儂らの傍に息づいているなど・・・
皇帝という地位は、皇室という存在は、此れほどまでに腐りきっているというのか・・・・。」
「陛下・・・・。ヘミョン様は砒素が何らかの毒である事はご存知だったと思われますが
シン殿下のお命を狙うなどという認識は無かったように思われます。」
「コン内官。毒と知っていてそれをシンに飲ませたヘミョンに、結果がわからないとでも申すのか?
ヘミョンは確かに幼いが、賢い姫だ。それが分からんはずはなかろう?世迷言を申すでないぞ!」
「いいえ。陛下。本当なのでございます。ヘミョン様は『死』そのものがお判りにならない。
そう、ソギョン様が申されておりました。」
「ソギョンが?コン内官、それはどういうことなのだ?」
「はい。陛下。ソギョン様が申されるには、ヘミョン様の中で死ぬということがどういう事なのかが
理解できていないようだと・・・。そして、苦しむのはシン殿下ではなく、チェギョン様であることも
ご存知だったヘミョン様には、シン殿下の命を脅かしたという認識が無いのだそうでございます。」
「・・・・・コン内官よ・・・・。儂は、その話のほうが、ヘミョンがシンの命を狙ったと言われるより
何倍も恐ろしい。それではまるで、ヘミョンは悪魔の子のようではないか?
儂は・・・、儂は一体どうすれば良いのだ・・・。ヘミョンはまだ幼い。シンはもっとだ。
しかし、2人の立場は単に子供であることを許さない。」
暫し瞑目した後、皇帝は疲れ果てたように弱弱しい声で話し出す。
「法度に沿って皇太孫は、皇太孫宮で両親とも離れて暮らすのだから、
一応2人を引き離す形には出来よう。しかしあれらは姉弟だ。皇室の一家としても
宮内での2人の存在のあり方としても、完全に接触を絶つ事は不可能だ。
シンはあの性格ゆえに、自分の命を脅かされた認識は無くとも、チェギョンを苦しめたヘミョンを
許す事は勿論、存在を認める事すら徹底的に否定するかも知れん。
この所、シンにはその傾向が現れていたし、益々拍車をかけた事は間違いない。
ヘミョンは自分が姫である事を良く知っておる。それに加え、これからは皇女となるのだ。
今のままではヘミョンからシンを守る事は難しい。
こんな事を繰り返せば、シンのヘミョンに対しての不信は憎しみにさえ変わるかも知れん。
これは家族の確執では済まされないのだ。皇室とはそういう存在なのだ。
しかし、ここまでされたシンに我慢を強いる事は、余りにも非人間的ではないか・・・」
「そして、何より問題なのはヘミョンに回ってしまった “ 宮の毒 ” を
解毒する術を、儂は知らんのじゃ・・・・・・・・。」
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「ヘミョン。このお薬はね、昔、女達がより美しくなる為に飲んでいたものなのよ。
これを飲むと肌が白くなったから、急に沢山飲んではいけないけれど
少しずつ飲んでいたのですって。あなた、言っていたわよね?いつもシンで実験をしているって。
一度、このお薬を飲ませてみてはどうかしら?沢山飲めば死ぬこともある薬だけれど
どれくらいが『沢山』になるのか、私にも分からないの。シンで試してみないこと?
だって、シンならたとえ『沢山』飲んだとしても、代わりに死んでくれる子がいるのでしょう?
いつも、シンを叩いても痛がるのはその子だって、あなた言っていたじゃない?」
そう、ファヨンに教えられ(!?)、ヘミョンはファヨンから女官と薬を預かって来たのだと言った。
沢山かどうかは女官に任せ、自分はファヨンが言ったように肌が白くなるかどうか
なるとすれば、それはシンなのかチェギョンなのか?と、楽しみにしていたのだと言った。
沢山飲めば死ぬと言われたのに怖くなかったのか?いけない事だと思わなかったのか?と
ソギョンが聞くと「死ぬのはシンじゃなくってチェギョンでしょ?だからお母様に怒られる事はないわ」
といって笑ってみせる。
死ぬ、とはどういうことだと思っているのか問えば、動かなくなって土に埋める事だと答える。
悲しくないか?と聞けば、不思議そうに首をかしげ、本当に何を聞かれているのか解らない様子。
毒物を摂取させられた事は瞳孔の焦点が狭まることや、嘔吐、著しい発汗等から察せられ
直ぐに胃洗浄と活性炭治療を行う事が出来たので、最悪の状態を免れる事が出来た。
即効性のあり過ぎるものや遅効性で対処が遅れてしまうもの、
毒物か、そうでないかの見分けが付き難いモノでなかったことは不幸中の幸いといえよう。
また、砒素は李氏朝鮮時代に死刑に度々使われた毒薬だが、現代の分析技術の発展と
元々痕跡の残りやすい毒物の為『愚者の毒薬』と言われている。
今回は、ジフの機転でグラスを採取することが出来たが、それがもしも出来なかったとしても
毛髪や爪から容易に暴露量やその存在を調べることが出来る為、何者かに毒を盛られた事や
それが砒素である事の証拠が残るのだ。
念のため、シンとチェギョンの爪を見てみたが、凹線や白線、白斑等は無く、
少量ずつ、慢性的に摂取させられてはいないだろうと安堵もした。
まぁ、慢性的に摂取させられていれば、今回突然中毒症状も起こさなかっただろうと
予測はしていたのだが。
血中に入った砒素は何年も毛髪や爪に留まり、経年後別の症状を発症することがあるが、
治療薬も開発されている毒物なので、今回はおそらくもう安心していいはずだ。
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実行犯の女官は、ユル皇太孫の乳母でもあるソ尚官の親族の娘で、ソ尚官の関与が疑われた。
宮内警察では過去のように事実を隠蔽されかねないので、自分の力の及ぶ警察庁への引渡しを
コン内官を通じて皇帝に打診したところ、警察庁への身柄引き渡しは構わないが、
敵方を一網打尽にするために少しの間待つように言われた。
3日以内に宮での大掃除をする手筈を整える、というので、それまではSPに監視させることにした。
ヘミョン姫の証言に証拠能力は無いと言われるだろうが、一応録音もしておき、
事情を話すのは心苦しくもあったが、後にやってきたチェヨンに次第を話し、
この件で集められる限りの証拠や証言を彼に託した。
孫娘の精神的な窮地に静かな怒りを燃やしながらも、友の胸中を思い胸を痛めるチェヨンに
ソギョンはかける言葉も無く、彼もまた、自身の息子夫婦の事や、その日目の前で起こった
猟奇的ともいえる事件に、複雑な思いを消化しきれず疲れきっていたが、
やはりこれからの3日間、更なる地獄を1人で進むのであろう友を思うと、自分を奮い立たせ
今医者として、友として、彼のために出来る事を抜かりなく遂行するのだと気持ちを引き締める。
ヘミョン姫の精神状態も気になったが、心に闇を抱えているというより、
性格的な問題に思えたソギョンは、それ以上立ち入る事をプロの判断として止めることにし
その所見をヘミョンを迎えに来たコン内官に預け、皇帝自らの判断に委ねることとした。
全ての処置を済ませ、子供たちのいる治療室となった部屋にソギョンが向かったのは
シンに治療をしてから、2時間ほど経った後だった。
部屋に入ると、隅の椅子に腰掛けていたチェ尚官が立ち上がろうとするのを手で制し
その光景にこの数時間の疲れた心を癒したのだった。
ベッドにはシンとチェギョンが、ジフを挟むように眠っており、
ジフは読み聞かせていたのだろうか、その手に開いたままの絵本を置いて
ベッドヘッドに背を預け、こっくりこっくり舟を漕いでいたのだった。