宮に戻ったヘミョンは、すぐさま新しく自室となった部屋に戻ると
勉強机の前に座り、引き出しから鍵のついたノートを大事そうに取り出した。
 
最近、読むだけでなく書く事も出来るようになったので、日記をつけるようになっていたのだ。
それは、ヘミョン自身を少しだけ大人になったような気分にさせるお気に入りの習慣だった。
今日はいつも以上に沢山書くことがある。何よりあのことを書かなければ!
 
カラフルな羽の付いたペン先をペロリと舐めながら宙を見上げる彼女の頬は
ピンク色に色づいて、うっとりと夢でも見ているかのような甘ったるい表情。
 
ユン邸で、彼女が仕出かした出来事を知る者が見たらゾッとするだろう程に
罪悪感の欠片も感じられない、幸せの絶頂の只中にいる姫宮そのものというものだった。
 
 
『きょうは、シンとチェギョンにじっけんをするために おじいさまのおともだちのいえにいきました。
じっけんはじゃまがはいったので、はんぶんせいこうで、はんぶんしっぱいでした。
あのりょうはたぶんファヨンおばさまのいった たくさん だったとおもうので
もっとすくなくしなければいけないことがわかったのは せいこう でした。
シンやチェギョンがしろくなるところをみられなかったのは しっぱい でした。
シンがじゅうすをのんだけど、やっぱりくるしがったのはチェギョンで おもしろかったです。
そして きょうは すごいものをはっけんしました。ほんもののおうじさまがいたのです。
おうじさまは、ちゃいろいかみのけと ちゃいろいめをしていて すごくきれいでした。
おうじさまは ユルだっておばさまがいったけれど、ユルよりもずっときれいでした。
だから、おうじさまはユルじゃなくて、あのひとだと、わたしはすぐにわかりました。
それから、きれいなおんがくをならしました。みんなもわたしもうっとりしました。
わたしはおひめさまだから、おうじさまはわたしとえいえんにしあわせにくらすのだとおもいます。』
 
 
そこまで書くと、もう一度読み直し、満足気に頷いてヘミョンはそのノートにしっかりと鍵をかけた。
 
 
***** ***** *****
 
 
葬送の礼を明日に控えた宮で、ミンは不安に怯えていた。
 
 
頼りになるはずの夫は、何度も行われる皇帝との話し合いに
日に日に疲れ、怒りっぽくなっていて、ミンの不安など、話すことさえ憚られた。
 
友人であるスンレに電話して愚痴ろうにも、覚えなくてはならない事がたくさんありすぎて
やっと開放される頃にはヘトヘトで、食事すらまともに取れないうちに眠りこけてしまうのだ。
 
それらだけでも、相当なストレスなのにも関わらず、
朝の挨拶でも、たまたま廊下ですれ違う時も、自分を只管睨みつけてくる皇太子妃と、
事あるごとに、皇太子妃と大君妃の格の違いを、厭味ったらしく吹聴する彼女付きの女官達に
精神的に酷く追い詰められてもいた。
 
子供たちのことは気にはなっていたが、段々手の掛からなくなってきたヘミョンの事で
唯一の心配の種だったシン達と離したことに安心していたこともあり、余り感心を払わないでいた。
というより、払う余裕が無かったのだった。
 
だから、ミンはその日起きた事を知ることが出来ず、
ヘミョンを注意する事も、その変化に気付くこともなかったのだった。
 
 
そして、その晩。ミン自身を大きな嵐に巻き込む出来事が起きる。
 
 
夜中に何か話し声のようなものが聞こえた気がしたミンは、
泥のような眠りからその身を剥がし、緩々と覚醒していく。
 
どうやらその声は男女のようで、男の方には聞き覚えがある。
 
次の瞬間、ミンの頭はすっかり目覚めることになる。
この声は、夫であるヒョン殿下のもの。
そして、もう一つの声にも聞き覚えがあったのだ。
艶めかしく、媚を含んだその声は、紛れも無く
明日、夫を葬送するはずの元皇太子妃ファヨン、その人のものである。
 
 
夫婦の寝室に、夜中平気で訪ねてくる非常識さにも呆れるが
それ以上に、義姉としてではなく、1人の女として
媚態を示していることがまるわかりの声色に
吐き気すら覚えるほどの嫌悪感を感じた。
 
夫は、あくまでも義姉として遇しているようではあったが
ずっと聞いていると、言葉の端々に女の魅力に揺れているような気がした。
震えるほどの怒りを覚え、僅かに身じろぎするとサラリと衣擦れの音を立ててしまった。
すると、となりの部屋が急に静かになってしまい、ドキリとする。
 
しかし、妻の立場であることを思い出すと、そんな小心な自分が馬鹿らしくなり
いっそ2人の前に顔を出してしまおうと、手近にあったガウンを羽織ると
扉に向かって歩き出した。
 
 
 
呼吸と、寝乱れた髪を少し整えてから、隣室へ続くドアを開けると
そこには夫の胸に抱かれ、泣き崩れるファヨン妃の姿があったのだ。
 
それは、まるで愛し合うもの同士の抱擁にも見え、ミンは動揺を隠せなかった。
 
 
 
(自分に背を向けている夫とは逆に、こちらを向いているファヨン妃は
私のことに気付いているはず。)
 
ミンはそう思うのに、呆然として声どころか指1本動かせないでいる。
その耳に信じられないような言葉が飛び込んできたのだ。
 
 
「あなただって、私を愛しているとおっしゃったではありませんか?」
 
 
ファヨンの声で告げられたその言葉に、夫が何と答えたのか・・・
もう、ミンには何も聞こえなくなってしまい、言葉として理解する事が出来ない。
そして、次の瞬間、腰が抜けたようにその場にくず折れてしまった。
 
 
ドサッという物音に、慌てて振り向いたヒョンは、ミンが蹲る様にしているのを見つけ
慌ててそちらへ駆け寄るが、彼の身体から香る自分以外の妖艶な香りが
ミンに拒絶反応を示させ、無意識にヒョンを突き飛ばしてしまう。
 
 
 
「あ・・・あなた・・・。愛してるって、ファヨン様を・・・?」
 
もう、何を言っているのかわからなかった。
 
「ミン。そなた、聞いていたのか?」
 
そう言った夫の顔を滂沱の涙で霞む目で見上げたミンは、その瞬間に絶望してしまう。
 
夫の顔は怒りに真っ赤になっていたのだ。
誤解を解くでもなく、言い訳を口にするでもなく
ただ、眦を吊り上げて立っていたのだ。
 
 
 
強烈な、目も眩むような恋愛をして結ばれた2人ではなかった。
寧ろ、淡々と周囲の思惑に沿って、寄り添うこととなった夫婦であった。
しかし、2人の子供にも恵まれ、友人達に囲まれ、穏やかに静かな
愛と呼べるだけの絆を作ってきたと、育んできたと信じていた。
 
その土台は、揺らがぬものと信じられたからこそ
息苦しい宮家の生活にも耐えてこられたし、明るさを保ってこられた。
 
自分はなんと愚かな世間知らずだったのだろう?
今までの結婚生活が砂上の城と気付かないでいたなんて・・・。
 
ミンの涙はピタリと止まり、能面のような無表情がその面を覆う。
そして、すっくりと立ち上がると、まずファヨンに向かって口を開いた。
 
 
 
「ファヨン妃様。もう夜も遅う御座います。いくら弟夫婦の部屋とはいえ、
このような時間に、こんなところにいらしては口さがないものも居りましょう。
お立場が悪くなっては大変で御座います故、どうぞお引取りを。
明日は皇太子殿下様との最後のお別れでもある葬送の礼に御座います。
妃殿下のファヨン様がその様ではきっとス殿下もお心が残られてしまいましょう。
ユル殿下とて、お母上のお気持ちが沈まれていては、小さなお胸を痛まれるでしょう。
どうぞ、お気を強くお持ちになり、明日の儀式を恙無く済ませられますように・・・」
 
 
そう言って深く礼をした。
 
その後、今度は夫であるヒョン殿下に向き直り、やはり同じように礼を執りながら話し出す。
 
 
「義姉上様とのお話中、無礼をいたしまして大変申し訳御座いません。
ですが、義姉上様同様に、殿下にとりましても唯一の兄上であらせられます
皇太子殿下の葬儀で御座います。どうぞ、もうお体を御休めになられてくださいませ。
お2人にとりまして、明日は私如きには計り知れない程に、お心の傷む一日となられる為
こうして、兄を、夫を悼み語り明かしたいお気持ちでしょうが、それはまた何れ機会も訪れましょう。
差し出がましい事を申しあげましたが、これもお2人の名誉を守る為でも御座います故
どうかご容赦いただけますように・・・」
 
 
それでは、と、佇んでいる2人に高雅な笑みを差し向けると
サッサと背を向け、音1つ立てない優雅な足裁きで寝室へと戻るミン。
 
元々、ミンはファヨンなどよりもずっと家柄も良く、生粋の王族の姫なのだ。
普段は気さくなその人柄に隠れて見えることは無いが、矜持高い女人なのである。
后と言うのはこういう者をいうのだと、有無を言わせぬ凄絶なオーラを身に纏い
夫である大君殿下すらも圧倒することだって、割と簡単にやってのけてしまうのだ。
 
 
 
見せないことと、出来ない事は違う。
 
 
そもそも、人間としての品格が違うのだ、と。まざまざと見せ付けられたファヨンは
それでも、この一刺しが、何れミンの体内を蝕み、宮の毒となって、自分に有利に動くだろうと
毒々しいまでに紅く彩った唇を、クイッと引き上げる。
 
そして、未だに呆然としているヒョン殿下に、最後の毒を含ませるが如く
スッと、触れるかどうかの羽のように軽い口付けをして、部屋を後にしたのだった。
 
 
 
ファヨンは知っていたのだ。
愛するからこそ、愛に脆い事を。
猜疑心は、猛毒である事を。