「・・・・・・・報告は以上でございます。」
 
「わかった。内官さんもお疲れ様。で?あいつらはどうしてる?」
 
「はい。深い傷ではなかったのですが、凶器が凶器でしたので感染症が懸念され
数日は宮内庁病院での入院となりましたが、本日退院なされて東宮殿で静養されております。」
 
「そう・・。ったく。あいつらは、相変わらずヤヤコシイ。」
 
「フフフ。然様でございますね。傷を負われた殿下よりも、一時はチェギョン様のほうが危なくて
私共も肝を冷やしましたから・・・。」
 
「だよね・・。まぁでも、良かったよ。どうせ今頃あいつら2人で看病しあってイチャついてるんでしょ?」
 
「クククッ。良くお判りで。太子殿下が人払いされまして、現在 東宮殿付きの私共は
休憩中でございますよ?」
 
「しっかり休んで。今回は本当に大変だっただろうから。一体何十苦?って騒ぎだったからね。」
 
「ええ・・・・。上皇様始め、皆様それはもうお疲れのご様子で。何よりもあのことが精神的に
お辛かったのだと思いますが・・。」
 
「・・・解るよ。俺も同じだから。でも、誰の所為でもない。運命だったんだよ。」
 
「・・・はい。ミン・サンジ氏も、これでよかったのかもしれないと仰っていました。」
 
 
 
他人よりも、喜怒哀楽の少ない自分でさえも、今回の事は些か堪えていた。
普通の感情を持つ人間や、ひとの痛みに敏感なチェギョンのような子には
相当辛かったことだろう。
 
 
 
けれど、それは誰の責任でも無く、ただ、運命の瞬間に立ち会ってしまっただけの事・・・・・・・。
 
 
 
「チェギョンはシンに任せれば平気だとは思うけど、注意深く様子を見ておいて。
あいつは時々、おかしな事を考えてしまう癖があるから。そうなったらシンには手におえない。」
 
「ジフ様。殿下は既にお気づきでございます。そして その傷を癒そうとなさっても、おいでです。」
 
「へえ?成長したね。あいつ。・・・なら、大丈夫だな。フッ。」
 
「ジフ様も、今回はお疲れでございましょう。本当にお疲れ様でした。」
 
「クククッ。そうだね。流石に少し、疲れたよ。暫くは、俺を 巻き込まないでね?」
 
「いえ・・。頼りにしております。その節はどうぞよろしくご協力ください。」
 
「気が向いたらね?それじゃ、少し俺も休むよ。報告アリガト。」
 
 
 
 
電話を切ったジフは、再び何事もなかったかの様にオーディオの音量をあげると
手にした楽譜を見ながら音を追ってゆく事に集中し始めた。
 
カール・ベームが指揮を執り、ウィーンフィルが演奏、同国立合唱団が謳い上げた
そのモーツァルトの死によって未完のまま、しかし傑作とされたレクイエム(死者のためのミサ曲)は
重厚さの中に繊細にデザインされたバランスで整えられ、絶筆と言われる8小節の
クレシェンドからフォルテの最高潮へ達するあたりは、非常にドラマチックだ。
 
偽作とも言われる、創作仲間に宛てた書簡には、人々の人気が離れ、病と戦いながら
この曲を製作中だった彼の心情として、その人生の最期を自覚しながらも
“人は自分の運命を変えることは出来ず、自らの生涯を決定することも出来ない。
摂理の望むことが行なわれるのに甘んじなくてはいけない”  とある。
 
 
 
既に終幕した2人のジェスターが演じた悲劇を想い、この偉大でそして哀しい作曲家の鎮魂歌は
ひどく似つかわしいと思うのだ。
 
 
 
そこには憐憫も、同情もない。 けれども、憎しみとて無い。 
運命のままに生き、摂理のままに生涯を閉じた。
その魂達への、静かな鎮魂だった。
 
 
 
***** ***** *****
 
 
 
それは、形容し難い多幸感だった。
 
 
 
自分はなんでも出来るし、世界の誰よりも優れ、そして幸せを約束されている
特別な、選ばれた人間なのだ、と心の底から湧き出る自信と活力。
 
けれどそれは、素晴らしく急激に上昇し、急速に失墜するものでもあった。
 
長時間続かない多幸感を再び取り戻す為に、頻繁な摂取を繰り返し
ヒョリンがコカインに手を出して、中毒になるまでは あっという間のことだった。
 
 
 
アメリカ暮らしの中で、マリファナなどは喫煙や飲酒程度のもの、という認識があった彼女は
然程の恐怖心もなく、いつでも止められるとタカを括りながら 深みに嵌まっていった。
 
 
 
SEXドラッグとも言うくらいで、ハイになって行う行為は、まさに天国のような快感だった。
あの皇太子にもこれを使えば、絶対に自分のものになる自信が、彼女にはあった。
だって、こんな快感を あんな乳臭い小娘が、与えられるわけが無いのだから。
 
その反対に、禁断症状と来たら、地獄よりも酷いと思える程だったけれど・・・。
 
 
 
 
 
 
だから、上皇、皇帝夫妻との謁見の朝も、興奮してナーバスになった状態では
自分をアピール出来ないと思い、比較的遅効性な錠剤を出発前にキメていた。
 
お陰で、私は 変に緊張することも無く、自分の長所をより強調出来たし
陛下達の前でも、平常心で自信のある自分でいられ、とても上手くやれている事に満足だった。
 
陛下達の反応も上々で、このまま行けば自分が皇太子妃になる日も直ぐだと思われた。
 
 
 
けれども、その幸せは、変なジジィが持ってきた書類を 陛下達が見た途端に崩れてしまう。
 
 
 
突然怒り出した陛下や、ワケの分からない事を言って私を庶民にすると言った皇太后様。
まぁ、これは上手く丸め込んで、上皇様が王族のままでいさせてくれた。
でも、上皇様はそう言いながらも 何故かとても怒っていて、薬物検査をすると言い出した。
 
ったく。ジジィ、何を吹き込んだのよ?
それにみんな、意味も無く急に怒ってみたりして、皇族ってカルシウム足りてないんじゃない?
 
とにかく、これは拙いと思って、クソ親父に助けを求めたけど、こいつ本当に使えない。
なんだかワーワー泣き出して、可笑しなことを言い出したかと思えば、私の顔を打ったのだ!
 
 
 
有り得ない!私にとって、成功する為の大事な武器なのに!
実の父親のくせに、一体 何てことしてくれんのよ!?
 
ああでも、なんだか気持ちがオチてきた・・・・。
 
 
 
どうせ来る医者は男だろうし、色仕掛けで検査結果なんてどうにでも出来るじゃん。
と、素晴らしい作戦を思いついた私は、そっとバッグの中に忍ばせていたクラックの粉末を
下を向いて手の甲からガラス管で吸い込んだ。勿論ロングヘアで見えないように隠して・・・。
 
 
 
でも、隠さなくても誰も私のことなんか見ていなかったのだ。
 
 
 
あの・・・浮かれ女の馬鹿っぽい声が、私がCokeをキメたのと同時に聞こえてきて
顔をあげた瞬間に見えたのは、私にあれ程怖い顔をしていた陛下達が
嬉しそうに微笑む顔だった。
 
その微笑みは、済州島での屈辱の夜、皇太子があの女に見せた微笑と
全く一緒の、優しくて甘くて・・・そして本当に愛しそうな・・・・・。
 
 
 
どうしようもない怒りが体の底から湧いてきた。
 
 
 
あの女がいる限り、この笑顔は私のものにはならない。
あの女さえいなくなれば、この国のNo1の女性になれる。
 
 
あんな女なんかに、この場所は渡さないっ!!!
 
 
走り出した私は、手に持っていたガラス管を あの女の顔めがけて振り下ろしていた。
目に刺されば間違いなく失明だし、顔を深く傷つければ、それでも良かった。
傷物が東宮妃に上がれるわけはないのだし、皇太子だって、そんな女を愛せる筈ないわ。
 
 
 
妃は美しくなくてはいけないのだ。 そう。 私みたいに。
 
 
 
確実に肉に食い込んだ感触がして、ウキウキと見遣れば
ガラス管は、あの女を守るように抱え込んだ 皇太子の首元に深々と刺さっていた。
 
 
なんてこと!?皇族を傷つけてしまったら、大変な罪に問われてしまう!!!
 
 
呆然と立ち尽くす私の前で、あの女と皇太子が同時に叫び声をあげた。
その時見た光景は、ひどく現実感が無く、不思議なものだった。
 
 
ドクドクとガラス管を通して血が溢れ出ているというのに、皇太子は一つも苦しく無さそうで
結局傷つけられなかった庶民の女が、皇太子の腕の中で倒れている。
紙のように真っ白な顔して、ピクリとも動かない姿は死体のようだった。
 
 
 
 
「なぜ?」
 
 
そう呟いた私の声を、私は最後まで聞いただろうか?
 
 
 
 
なぜ、皇太子は苦しまないの?
なぜ、あの女は死んだみたいに倒れているの?
 
 
なぜ・・・・・。私の心臓は、止まってしまったの?