ミン氏がようやく笑顔になり、皆も何か心の痞えが取れたような、不思議と穏やかな気持ちになる。
 
 
 
最後にチェギョンがしっかりと彼を抱きしめて、これからは私を娘とも思ってくださいませんか?と
問えば、再度泣き崩れたミン氏であったが、その涙はもう見る者に苦しみや悔恨を与える事は無い。
 
 
 
「チェギョン様。私は王族を離れた身ゆえ、何ほどの事も出来ない事でしょう。
ですが、あなた様とシン殿下のお幸せのためであれば、この身を賭してどんな事でも致しましょう。
娘をしっかりと育てきれなかった不甲斐ない父ですが、これからはその罪を償うつもりで
土を捏ねて生きていこうと思います。そしてお2人のお幸せを祈り続けてゆきます。
王族は腐っております。私もその1人でございました。ここに、私の知る限りの王族達の事を
書き記した物と、今回の娘の仕出かした事を綴るメールと日記のコピーを持ってまいりました。
これが何かの役に立つか、立たないか、私には分かりませんがせめてもの娘の罪の償いとして
どうか受け取って下さい。きっとこれからもお辛い事は起きるでしょう。でも忘れないでください。
私という人間にとって、あなたが生きる希望なのだと。あなたと殿下のお幸せが私をも幸福にすると。
そんな人間は、きっとお2人の周りに これから、もっともっと増えることでしょう。
お幸せにならねばいけませんよ?宮は、国民の希望の光なのです。上皇様ご夫妻や皇帝ご夫妻
そして、チェギョン様とシン殿下ご夫妻がお幸せであることこそが、我々を幸せに導くのです。
王族を離れ、罪を贖い生きあぐね、やっとこの事に気付きました。チェギョン様のお陰です。」
 
 
 
その声は、抱きしめるチェギョンを 優しく抱き返すその腕は、紛れもなく父のもので
その言葉は、後悔や死ぬほどの苦しみを乗り越えた者だけが知る慈愛に満ちたもので。
 
ホロホロと真珠のような涙をこぼすチェギョンのそれを優しく拭い、少し困ったように微笑んで
何事かをソッと チェギョンにしか聞こえないように囁いた。
 
(おや、いけない。殿下が焼きもちを焼かれているようですよ?殿下にその可愛らしい笑顔を見せて
私が叱られぬよう、助けてはくださいませんか?きっとご機嫌が治りますから・・・。)
 
ちょっと驚いたような顔をしたチェギョンだったが、直ぐにニッコリと・・・・
そう。あの頃のチェギョンが戻ってきたかのような、大輪のひまわりを思わせる笑顔になって
心配そうに隣りに佇んでいるシンへと、その笑顔を向けた。
 
 
 
その瞬間、シンの身体の中の何処かに 『パリン』 と何かが割れる音がした。
そして同時に、我知らず溢れ出すのは 彼がこれまで 堪え続けてきた苦しみの河。
 
震える手を、その存在を確かめるように伸ばせば、いつだって彼を優しく包み込む
甘い、彼女だけが持つ香りが 彼の鼻腔を擽って、その河は更に決壊する。
 
 
 
待っていた。  待ち続けていた。
 
 
 
もうこのままでもいいと。
それでもそれはこの腕の中にあるのだから、それで十分だと
確かに思っていた。それは掛け値無しの彼の真実。
 
 
 
でも、会いたかった。  会いたかったのだ。
 
 
 
全てを有りの儘に受け入れて、そこに幸せも見いだせた。
けれども、それでも足りないほどに、このチェギョンを求めて止まない己がいた。
 
そんな自分に、彼はこの瞬間まで気付きもしない程
チェギョンの笑顔を求める自分を、深く深く、胸の奥に沈めて封印していたのだった。
 
 
 
あの音は、その封印が壊れた音。
 
そして溢れ出すのは、本当の彼の想い。願い。希求。
 
 
 
全ての痛みを、苦しみを分け合う2人だからこそ、シンはチェギョンの全てを 正真正銘請け負った。
請け負ったからこそ、己の願いは封印せざるを得なかった。それで構わなかった。
チェギョン自身よりもシンを大切にするチェギョンを、シンもまたシン自身より大切だったから。
 
 
 
 
「チェギョン。 チェギョン。 チェギョン・・・・ッ!!!」
 
 
 
 
その名は愛する者の名。そして自分の心を全て預ける者の名。
この名を呼べなければ、きっと呼吸は止まってしまうだろう。世界は果ててしまうだろう。
其れほどに、特別で。 愛おしくて 愛おしくて 堪らない。
呼べることが、苦しくなるほど幸せで、泣きたくなるほど嬉しい。
 
 
 
 
「チェギョン・・・・。良かった。 お前が、帰って来てくれた・・・・・。」
 
 
 
 
いつからか、大きく頑丈になったその腕に、胸に抱(いだ)かれて
シンに呼ばれる自分の名に、彼の痛みを、苦しみを、そして喜びを知った。 
 
 
 
此れほどまでにこの人を追い詰めていたのだ。
 
 
 
自分から出られずに、見ているようで、何も見えずにいた私は
たった一人の 己の分身さえ見ることが出来ずにいたのだ。
 
 
 
笑顔一つで、ここまで泣き崩れるこの人を、私は知らなかった。
 
 
 
いつも微笑みに微笑みで返し、温もりと幸せを 私に与え続けてくれたこの人が
どれだけの痛みをその胸にしまい込み、私達のつながりを知っているからこそ
私に気付かれないように、自分すらも気付けないように、深く深く、隠してしまったのか?
私こそ、気付いてあげなければいけなかったのに。この不器用な人の代わりに・・・・。
 
 
 
 
「シン君。ただいま。」
「シン君。待っててくれたのね?」
「ありがとう。ありがとう。シン君。」
 
「・・・・シン君。・・シン君。・・・・シンクンッ!!!」
 
 
 
 
囁いて、その背を撫でた。感謝を込めて頬を擦った。
見上げて、その瞳の中には、彼の涙に溺れそうな自分の笑顔があった。
 
 
 
もう駄目だった。彼女もまた、彼の名を、彼女の全てである、寿ぎの名を。
呼べることが此れほど愛おしいと思わなかった。
口にできることを、此れほど嬉しいと思わなかった。
でも今、たった二文字のその言葉は、彼女の細胞を甦らせ、呼吸させ、息づかせるのだ。
 
 
 
「愛している」 よりも伝えたいのは
この声で呼ぶ 其々の 「名」 だった。
 
 
 
2人には、それがどんな愛の言葉よりも、大切なものだと分かっていたから。
ようやくお互いの中に、お互いが戻ってきて、そして呼び合うその名には
相手を本心 請う自分。相手に本心 乞われる自分。 がいるのだから。
 
 
 
固く、互いの涙すら溢さぬ様に抱き合って、互いの名を呼び合う若い2人。
 
 
 
その2人に、未来の希望を託した陶芸家は、静かにその姿に頭を垂れ
そしてとても穏やかな笑みを残して、帰って行った。
 
 
 
それにも気付かずにいる彼らを、大人達も 暫くは苦笑いで放って置いたが
悪戯そうな光を、老いたその目に宿らせると、ニンマリ微笑んで上皇が口を開く。
 
 
 
「もういい加減離れんか?それが嫌なら東宮殿で続きをしてくれ。
年寄りの身には、刺激が強すぎていかん。ジフも知らぬ間に帰ったようだし
儂等も久しぶりに友と語らいたい。子供は帰って寝る時間じゃぞ?フォッフォッフォッ」
 
「上皇陛下!///」
 
「なんだ太子?何か不満か?いいのかのぅ?これからそなたとチェギョンの婚姻に向けて
話し合うつもりだったが、止めてしまおうかのぅ??そうするとまた、遠のくのぅ?残念じゃなぁ?」
 
「・・・・。失礼させていただきますっ!チェギョン!行こう!続きは後だっ!」
 
「し、シン君続きって・・///」
 
「ん?おっ? 可愛いチェギョン♪真っ赤になって♪」
 
「シン!もういいから、とにかくチェギョンを連れていけ!お前な、仮にも父親の前で
チェギョンに何しちゃおうとしてたんだよっ!!ったく、ヒョンにそっくりだなっ!!」
 
「ナムギルヒョン!私はあんなにあからさまに駄々漏れてはいないぞっ!!」
 
「・・・・ヒョンや。お前が気付かんだけで、十分駄々漏れておるぞ?ほんに親子よの?」
 
「チェヨン殿、それでは太子も皇帝も、私達夫婦のどちらかに似ていると言われるか?」
 
「ブッ。そうですな。皇太后様。それはやはり、ソンジョではありませんかな?
なんせソンジョも昔から、二言目にはパクパク煩くて・・、なぁ?ソギョン?」
 
「ワシに振るな。ワシに。しかしまぁ・・。そうだな。ソンジョ似は間違いないな。
酒が入ると一層パクパクって、そりゃあもう・・・・・」
 
「もう良い!!///お前ら煩いっ!!ほれ、そなた達、そんなわけでちゃーんと
そなた達の話は儂等で考えておいてやるから、ほれ、もう行きなさい。」
 
 
 
最後は 『シッシッ』 と追いやるようなジェスチャー付きで
半ば無理矢理追い出されたシンとチェギョンは、思わず顔を見合わせて大爆笑をした。
 
 
 
その笑い声は、あの凶事から今日まで、この宮で聞くことは叶わなかった声。
そして、これからも聞けないのでは、と皆の心を辛く悲しい闇に落としながらも
いつかもう一度聞きたいと、その日が来るのを待ち続けていた希望の声。
 
その声を漏れ聞いた者の手によって、例の 「エマージェンシーコール」 が再び鳴らされる。
一度目のコールの時は、彼等に悲しみを知らせたが、二度目のそれは喜びを伝えるのだ。
 
 
 
幸せの笑い声に包まれた宮は、悪い魔法が解けた後のように
突然輝き出して、にわかに活気付く。
 
 
 
庭師は空を見上げ、天に感謝をしてから、日除け帽を目深に被って作業を再開した。
鋏を持つ手は僅かに震え、目には暖かい物が溢れていたけれど、口元は綻んでいた。
 
水刺間は、包丁の音も軽やかなリズムを刻み始めた。
一瞬、光るものを湛えた瞳をサッと拭き取ると、パタパタと女官達が忙しなく動き始める。
誰もが皆笑顔で、誰もが皆踊るようにその手を、体を動かして、美しく彩りよく皿の上を飾っていく。
それは祝いの膳。この日の為に、今日が何時来てもいいように、ずっと用意されてきた膳。
今日こそは、皆様に振舞えるのだと、その張り切りようは若干鬼気迫る風でもあり・・・。
勿論、あの甘党な方の為に、特別に意を凝らしたデザートも準備せねばと、余念は無い。
 
内官達は真面目な顔して誰かとすれ違うたびに、互いにガッツポーズでニヤリと笑う。
女官達は宮を駆け回る雀のように、喜びをさざめかせて、宮殿全体の風を明るく入れ替える。
尚宮たちはそれを一応叱りつつも、その声は柔らかく、所々に笑みが混ざる。
イギサ達は雄叫びを上げつつ男泣きに泣き、女性イギサもまたその瞳に一筋の涙を流す。
医局院では、もしや今夜にでも!?と何やら薬湯の調合などをゴリゴリ始めてみたりする。
 
 
 
そしてその誰もが笑顔で、誰もが泣いていた。
 
 
宮の闇が、憂いが。
 
 
2人の天の、軽やかな笑い声によって、祓われ清められた寿ぎの午後のこと。