『さて、皆落ち着いたかな?すまなかったね。いきなり見ず知らずの者が掻き乱してしまって。
しかし、とても大事なことなんだ。大切なものを守る為には、君達の弱点は少ない方が良いんだよ。
象の耳に一匹の蝿が入り込み、そして卵を生みつける。その内それは蛆となり、象を内側から蝕む。
その象は気が狂うか、病むか、何れにせよ助からない。いいかい?象を倒すのはライオンなんか
よりも、たった一匹の虫のほうが上手くやるかもしれないんだ。そうならない為に 象は水浴びを
するが、君達は互いによくコミュニケーションをとって、心に湧く蛆を常に掃除しなければいけない。
揺らがない人間などいない。どんな立場の人間にだって感情はあるからね。しかし、大きな力を
持つ者は、持たざる者よりもその揺らぎが命取りになる。帝王学には常に心の安定を、とあるが
私の知る限り、これを守る為に多くの為政者が感情を捨てるか、押さえ込むかしたが
彼らは皆、善き人、善き人生にはならなかった。要するにそれは間違った答えなんだよ。
愛や信頼は人にとって欠かせない感情だ。それを弱点ではなく、武器にすることも出来るんだ。
特にヒョン君。君の不器用さは、場合によっては命取りになるよ?奥方とよく話し合うんだね。』
 
 
クリスの言葉には心があり、その行動には意味があった。
とても自然に、そして穏やかに事を運んでいたので それとは気付かずにいたが
彼の言葉によって、自分達が如何に危うい橋の上にいたのかを
今更ながらに気付いた皇帝達は 内心戦慄を覚える。
 
危なかったのだ。自分は。
 
この心は、自分が思っている以上に脆く、御し難い。しかしそれを厭うのは間違いだと
武器に変えろと この人は言う。愛や信頼は人には欠かせない感情なのだと・・。
もう少しで間違うところだった、と 彼らは心のどこかで気付いていた。
実際その立場ゆえ、様々な感情を、これまで押さえ込み 諦めようとしていたのだから。
 
皇帝夫婦もナムギル夫妻も、其々の連合いを、そして友を見て頷きあった。
 
老人たちはそれを見て満足そうに微笑んでいたが、その穏やかな空気は
次のクリスの言葉によって、一掃されることとなる。
 
 
『では、本題に入らせてもらおう。私は、私の全ての力を持って私の天使を守る積もりなんだが
どうやらその為には君たちも、この国の安寧も守らなければならなくなりそうなんだよ。
しかし私は事業家だから、投資先のリスクは一番に気になる。そこで色々検討した結果なんだが
ソンジョやチェヨンが生きているうちはいいが、長期的な展開を考えると 今のままでは
この国に、そのメリットを見いだせないと判断した。』
 
 
ニッコリと微笑むその姿は、とても優しげな小柄な紳士だが、その言葉の鋭さと重みは
暖かく温まっていたこの部屋の空気を、一瞬で緊張させるだけのものがある。
これが、世界一位のモンスターを作り上げ、そこに君臨する男の真骨頂なのだった。
 
 
『クリス。どういうことだ?それはつまり、そなたの目から見て『韓国には未来が無い』という意味か?
場合によってはたとえ友であり、恩人であったとしても、その無礼、許す事はできぬぞ。』
 
 
そしてこちらも。長きに渡ってこの宮を治め、その身中にはこの国を統治し続けた一族の血が
色濃く流れる龍王が低く吼え、静かな怒りに両の眼光を鋭くし、青白い炎を湛えて睨み据える。
 
 
『ふふふ。いいね。ソンジョのその目。ワクワクするよ。しかし私もモーガンの末。
そして財閥の長だ。この重みが何を意味するかは、私が一番良く知っている。
今時珍しい前近代的な同族企業の一事業主に過ぎないが、そのたかが一企業の動向如何で
世界の経済は大きく動いてしまう。私一人の感情で動かすには余りにも巨大で恐ろしい力を
持っているんだ。その立場から言えば、情よりもリスク回避する方を選ぶのは当然のことだろう?
けれども、私は人間だ。そして意思も持ち合わせている。こうと決めたらそれを成功に導く能力も
幸い備わっているようだ。だから、まず私の話を聞いて欲しい。そしてそれから煮るなり焼くなり
好きにすればいいよ。ただし、君に 世界恐慌を起こしてでも通す理があれば、の話だがね?』
 
 
ヒヤリと冷たい剣の切っ先を 喉笛に当てられたかと思う程の鋭い声音と、何処にも誇張の無い
彼が持つ力の巨大さが、余す事無く 有り得ないほどの重みを持って彼等の心臓を掴む。
上皇をはじめ、チェヨンやソギョンは、友である男の本質を、まざまざと見せ付けられ息を呑む。
息子夫婦に至っては、未だ嘗て 其々の父を越える程のオーラを湛えた人物を見たことは無く
背筋にジットリと汗ばみながら、震えだしてしまわぬように互いの手を取り合って
事の次第を見守るより他無い。
 
 
其々に大きな力も存在感も持つ者たちだったが、それでも圧倒されて
この者の言う事を聞かないわけにはいかない様な気配に制されてしまった。
ただ聞くのではない。おそらく有無も無く、従わねばならぬだろう、と・・・・・・・・。
 
 
『フム。おいクリス。それではワシは生きても死んでも あまりこの国の未来には関係ない
ってことか?まぁな。それはそうだろうがな・・?でもお前の天使にはきっと関係大有りだぞ♪
で、皆を脅すのはそれくらいにして、とっとと本題に入れ。要するに、お前が珍しくその権力を
最大限に振りかざしてでも、【成功させたいプラン】があるのだろう?全く・・・・。
無駄に心拍を上げさせるんじゃない!!ワシ等はもういい歳なんだぞ!?
本当に何かあったらどうしてくれるんだっ!!クククッ』
 
『ハハハッ!!やはり君は文化財団の理事なんかよりも、国政に携わるべきだと思うがね?
ハァ・・・。ちょっとつまらないが、読まれているなら手っ取り早い。とにかく失敗は許されないんだ。
さて・・・じゃあ とりあえず、ウチの天使のことから話そうかな?ソギョン、君が今いなくなっては
この計画の全てが変わってしまう。天使の為にもこの国の為にも、長生きしてくれないとね?』
 
 
ソギョンがニヤニヤしながら、あの雪の晩と同じく 場の空気をサラリと和ませると
それを面白そうに笑いながら、このアメリカ人の紳士は先ほどまでの柔和な姿にふっと戻る。
 
 
『ヒョン君、ナムギル君。驚かせて済まなかったね!けれどもこれは交渉の常套手段だよ?
相手を怒らせる位の本質を突き、そして自分の力を見せつけて威圧する。冷静にね。
その上で本題を切り出す。そこからは、君達のキャラクターでどうとでもなるだろう?
友好的にも、敵対的にもね?使いこなせるようになりなさい。きっと君たちを助ける武器になる。』
 
『そんなことだろうと思ったよ。お前それ、ジフにも使っていたな?あれも意味があったのか?』
 
『ジフ君はテストのつもりだったんだ。合格だったよ。驚きはしたが、呑まれなかったからね。
あの若さで、あの緊張の中であっても、出来る限り冷静に状況を読もうとしていただろう?
本当に いいよ、彼は。先が楽しみだ♪ウチのRukeも中々楽しみな感じなんだけどね♪
まぁ、交渉の名人だった男に育てられたんだ。元々の素質もあるんだろうが、日常の中で
自然と学んで、身に付いているんだろうね。それに、君達に随分鍛えられたんじゃないのかい?』
 
 
 
機嫌良さそうにそう言ったクリスと、それを呆れるようにしているソギョンの会話の内容には
色々と驚嘆に値する要素があったが、とにかくこれから話される話を聞いておかねばと
一同は口を挟む事無く、彼らの言うところの「天使」の話が為されるのを待った。
 
微笑んでいた顔を再び引き締めると、クリスは静かに話し始めた。
 
 
『全ては彼女から始まって、彼女に帰結する。私から見るとそういう話なんだがね・・・・。』
 
 
それは、隣の国に生まれた1人の少女が、過酷な人生の中でも健気と言える程に真っ直ぐに
必死に生きてきた話であって、一組の親子によって壮絶な体験をその身に受けた話でもあり
この世に神や仏は存在するのだろうか?と絶望してしまいそうな話だった。
 
韓国に運ばれてからの話はソギョンが請け負った。怪我の状態。今後の後遺症の可能性。
昏々と眠り続けた10日間。言葉を失っている現在。恐らく記憶もいくつか欠落している事。
淡々と話されるその中に、何を見いだせばいいのかも判らない混沌を感じてしまう。
 
聞いているだけで、その少女にあった事も無いというのに、女性達は知らず涙をこぼし
男性たちは、その顔に苦悩と怒りを滲ませる。
 
(これがもしチェギョンに起きた事だったら・・・・)
 
一瞬過ぎる自分達の愛しい少女の面影に、その話を重ねてしまえば どうしようもなく苦しくなる。
 
人との出会いは全て縁だと言うけれど、彼女がその男に出会わなければ起きなかった苦しみ。
出会った瞬間に、その縁の結末なんて誰にも分からない。それが結末なのかすらも。
相手の男は記憶に障害があったという。恐らく彼本人すら予想しなかっただろう顛末。
 
誰にでも起こり得る、しかし起きてしまえば人生なんて簡単に狂うかもしれない凶事の引き金は
何処まで遡れば、それが避けられたのかもわからないし、誰がその禍事を運ぶのかなんて
きっと分かろうはずもない。けれど、それを運命の一言に括ってしまうには何と惨いことだろう。
 
 
『やりきれない。この話を聞いたジフ君はそう言ったよ。けれど、彼は答えを出したようだ。
それが 【過去に対して人は無力だが、未来を幸せにすることで過去は姿を変える】 と
彼が言った言葉だと思うんだ。だから私は彼に、ジフ君に娘を託そうと思うんだよ。』
 
『娘とは・・?おい、クリス。お前はその天使を娘にするつもりなのか?それにジフとじゃと?
ソギョン、お前はそれでいいのか?それでジフは、その天使もだが、幸せになれるのか?』
 
『チェヨン。ワシはそれがジフの幸せだと確信しておるよ。気になるというのなら
ワシの邸に確かめに来てみろ。驚くようなジフが見られるぞ!クククッ』
 
『私もだ。それが彼女の、娘の幸せになると今はそう・・信じたいよ。いや、信じられるよ。
養女にする事は、この事が起こる前から決めていたことなんだ。私の所為かもしれない。
もっと早く、彼女を私の娘にしていれば・・・悔やみきれないでいる私の気持ちさえ
ジフ君の言葉は希望で満たしてくれた。私は彼のいう様に、私の天使を幸せにすることで
この悪夢から開放させてやりたいんだよ。ジフ君は【もしも】は無いとも言った。
私もそう思うことにするよ。けれど、こうも思うんだ。【もしも】私の養子縁組がもっと早く済んで
彼女がこんなことにならなければ、私は彼女を韓国に連れてくる事は無く、
ジフ君と出逢った可能性も、そして2人が惹かれあう確率も、ずっと低かったんじゃないかと。
【もしも】2人が共に手を取り幸せになってくれるなら、これこそまさしく【必要だった過去】
になるんじゃないかってね・・。随分辛い試練を神は彼女にお与えになったが、それは
本当の愛を掴む為には、必要なものだったのだ。と心から思える日が来ることを
私は信じたいだけなのかも知れないがね。』
 
 
あの時のジフの言葉が、本当にその少女を思って出た言葉なのであれば
ジフの気持ちは確かに 将来を考えるに値する値打ちのあるものだし
彼の中に、恋愛感情の有無は別にしても、ともかくその少女が 
彼にとって大きな存在である事は間違いないだろう。
 
あのユン・ジフという青年は、今まで人に執着を見せたことも、誰かの人生に介入しようとも
決してしなかった。常に程々の距離を他者と保ち、相手が彼によって変わることは
あったとしてもそれは多くの場合、彼の意思でそうなったわけではない。
一種の化学反応でしかないのだ。しかし もし、彼が自分の意思で誰かと積極的に関わろうと
するのであれば、そんな彼を見て見たいと思う。そしてその変化を見届けたいとも。
 
 
しかし、何故これ程の緊張感の中話し合われねばならないのだろう?
子供の頃から見てきたジフと、会った事は無いがきっと素晴らしい娘なのだろうと思える少女の
明るい将来の話とは、到底そぐわぬこの雰囲気と、あのクリスの威嚇とも取れる言葉の数々が
彼等の脳裏を、激しい違和感となって刺激し続けていた。