漢南エリアと呼ばれる地域は 近年、漢江を望む抜群のロケーションや
セキュリティや付帯施設の充実を売りにする高級マンションが
雨後のタケノコのように登場している、最近注目のエリアだ。
 
 
その一角、三成洞と呼ばれる地域のタワーマンションに深夜、一台の黒塗りの車が停車される。
 
 
「牧野様、到着いたしました。」

「ありがとう。キムさん。こんなに遅くにごめんなさい。」

「いいえ。これが私の仕事ですから、どうぞ牧野様はお気になさらないでください。」

「・・・そう、ですよね・・・。」

「・・・では、明日は平常通り8時半にお迎えに参りますので。」

「はい。よろしくお願いします。おやすみなさい。」
 
 
ドアを開けてくれた運転手の黙礼を背にして歩き出した女性は
エントランスまでの一瞬の寒さにコートの衿を立てて首を竦めた。
 
 
「サムッ。川からの風かなぁ?こんな所に態々大金使って住みたいだなんて
お金持ちの考えって、やっぱわかんないや。ハァ・・・。」
 
 
そう呟く彼女こそ全身を高級なブランドの服に包まれ、豊かな黒髪は手入れの行き届いた艶やかさを保ち
歩く姿にも洗練された気品の漂う見るからにハイソな美女なのだが、本人にその自覚は無いらしい。
 
少し足早にエントランスの回転扉に吸い込まれると、適温に調整されたロビーの温かさに迎えられ
僅か数歩の距離にも拘らず、すっかり寒さに強張ってしまった体をそっと弛緩させた。
 
昼間でも静かなこのマンションの、深夜ともなれば当然人影は無く
このマンションのウリでもあるコンシェルジュに目礼をして、カウンター横を通り過ぎると
フロア毎に独立したエレベーターのあるエレベーターホールへと向かう。
 
深夜の静かなホールには、彼女の履くヒールの、カツカツという音だけが響き、
その余韻が耳に残る程度の間をおいて、やがて来たその箱はチンっという到着音と共に静かに口を開く。
 
まるで呑み込まれるみたいだと思いながら、オーク調に整えられたその空間へとその身を運び入れ
普通なら停止階を示す数字ボタンがあるべき場所にある溝に、フロアキーをスッと滑らせて
点滅ボタンが赤から青に変わるのを確認するという、習慣化されている動作を殆ど無意識でこなすと
この頃では癖になりつつある溜息を1つ零しながら、背後の壁に背中を預け・・・・・・・
 
 
・・・られなかったっ!?!?!?
 
 
何か、膝ぐらいまである物体に後ずさった足が引っかかり、グラリとバランスを崩した彼女は
避ける間もなくその物体に尻餅をついてしまった。
 
 
「ひぇっ?」

「ぐっ・・・」

「・・・・ぐっ? 今、 『ぐっ』 って・・・・、おっつっ!!??」
 
 
奇妙な、息が潰れるような音?声?が、自分のお尻が乗っかってしまっている物体から発せられ
慌てて飛びのいてから恐る恐る振り向くと、男性が蹲って苦しげに眉を顰めていた。
 
内心(な、何?この人は???)と、軽いパニックに襲われたものの
ここ数年の数奇な体験の数々で、多少の事では動じなくなっていた彼女は
努めて冷静にその男性を、凡そ歩幅一歩分の距離を開けて観察してみる。
 
 
(あ・・・。お隣さん?かな?)
 
 
薄茶の髪やその無駄に長い手足。そして服装の雰囲気には見覚えがあった。
 
プライバシーの保護に重点を置いたコンセプトのこのマンションでは、顔見知りになる住人は殆どいない。
ただ、ワンフロアに2世帯という構造上、同じエレベーターを使う隣人だけは時々顔を合わせることがあり
彼はおそらく彼女の部屋の向かい側のドアの向こうに暮らす【お隣さん】だ。
 
であればこのエレベーターに彼がいるのは理解できるのだが、何故その人がこんなところで
グッタリと蹲っているのかが理解できない・・・・。
 
 
ん?・・・ “ ぐったり ” ・・・・???
 
 
「えっ!?ちょっ、もしもし?あの、お隣さんのお兄さん?
どうしたんですか?具合でも悪いんですか??」

「・・・・・・いた・・・」

「え?どっか痛いの?やだっ!どうしようっ!?ひ、非常ボタンはっ!?」

「・・・おなか、すいた・・・」
 
 
慌てて非常ボタンを探し、見つけた赤いボタンに指を押し付けようとした瞬間。
背後からようやく聞こえる、という程度のか細い声は最初、彼女の頭の中で意味を結ばなかった。
 
 
「ペ・・ゴパ・・・???おなか、すいた・・・???」
 
 
非常ボタンを押すはずの指は行き場を失って彷徨い・・・・
最終的にどうやら空腹が理由で物体と化しているらしい青年に向けられた。
 
 
「お腹が空いてるですって?このハイソでセレブでリッチな香りがプンプンする人がっ!?」
 
 
思わず日本語で叫んでいた。だってどうにも信じられないのだ。
空腹で一歩も動けなくなる経験は自分にもある。そう、何度も。
しかしそれは、こういうところに住む人々には殆ど、否、絶対に起こりえない現象のはずだ。
 
ほんのちょっとのお菓子と、水でお腹を膨らます生活を数日過ごすとこうなる。ような気がする・・。
あれは辛い・・。マジで辛い・・。お腹空きすぎて、生きることすらどうでも良くなるんだったっけ・・。
 
 
「あの・・。お隣さんのお兄さん。うち、多分あなたのお向かいだと思うんですが・・
こんな時間だし、大したものはないけど・・・、ウチで何か、食べていきません?」

「・・・・・・・・。」

「あ、怪しいモノじゃありませんよ!?2602のマキノと言います。お兄さんは2601のひと、でしょ?」
 
 
言われてみれば、この黒髪とデカイ目には見覚えがある、と彼もボンヤリする意識の中で思う。
 
 
元々人に興味が無い彼でもペントハウスである最上階に暮らす隣人は少しだけ気になっていた。
他人と交わるのが嫌いな彼は、最初このフロアを買いきりたかったのだが既に先約がいたのだ。
ならば他の物件を探そうとも思ったが、彼の条件に一番マッチしていたのはここだけだったので
どうせそんな所に住む奴だから俺のことなど先方も構ってこないだろう、と思い直し契約を済ませた。
 
案の定引っ越しても暫くの間、隣人らしき人物に会う事は無く、自分の神経質さを可笑しく思い始めた頃
エレベーターを降りた彼の耳に、僅かにピアノの旋律が聞こえてきた。
 
それは向かいのドアの奥から聞こえるらしいが、完全防音のはずのこのマンションで何故?と興味が沸き
少し近付いてみると、どうやらドアにヒールが挟まって閉まりきれなかったらしいことが解った。
 
 
女か・・。しかも結構若い・・?
 
 
瞬間苦い顔をした彼は、自分にしては珍しい好奇心がもたらした結果に舌打ちをした。
こんな高級な部屋に住むことの出来る若い女性、というイメージは彼にとって良いものでは決して無い。
きっと鼻持ちならない女なんだろうし、下手に親しげにされては迷惑だ。
 
直ぐにそう思うのは自惚れのようだが、彼にしてみると散々経験してきたことであり
しかもその経験の殆ど全てが酷く不愉快な記憶でしか無く、よって、自衛本能と言うべきだろう。
 
 
早々に立ち去ろうとした彼は、しかしその足を止める。
 
 
トロイメライ・・・・。その道のプロでもある彼からすれば、決して上手いといえるほどの演奏ではなかったが
テクニックではない、何か心情に訴えてくるような哀しげな色をした音がもう少し聴いてみたいと思わせた。
 
 
どんな思いで弾いているのだろうか
 
 
ロマン派であったシューマンが【夢】と名付けたその曲は
誰でも弾けるがその解釈は複雑で、理解して弾きこなすのは非常に難しい曲だ。
 
カノンやフーガといったわかりやすい対位法ではないが、彼独自のそれで幻想的な夢の世界を紡ぐ。
しかし低音域の曲想によって、徐々にこだまするように沈潜していくのだ。
子供の情景の中にある小曲だがトロイメライという曲は夢の構造そのもののように
意識と無意識を行き来し、次第に輪郭がぼやけ途切れ途切れに沈潜していくもので
【子供が見る夢】だとか、【子供時代を大人が懐かしく回想している】などという解釈がなされるが、彼女のトロイメライはおそらくそのどちらにも当てはまらない。
 
まるで・・・・、過去の、美しかった恋を振り返り哀しみの中で見送っているような・・・。
まさかな・・?そんな解釈を若い女性がこの曲につけられるはずも無い。考えすぎだ。
 
不意に途切れた旋律と彼が思考の淵から自分を取り戻したのはほぼ同時で、今度こそそのドアから離れ
自分の部屋に向かって歩を進めた。

背中越しに パタン・・と静かにドアが閉まる音を聞きながら。
 
数日後、エレベーターホールで会ったその女性は今夜と同じように高級な服でその身を覆い
美しい黒髪を背に流した漆黒の大きな瞳が印象的な美人だった。

・・・そして、想像以上に若かった。

ほんの少しその事に驚きながらも、予想通りか・・・・と視線を逸らして意識から追い出した。
もう、そんな人間は自分の傍にいないかのように・・・・・。
 
 
けれども、違和感があった。
 
 
同じエレベーターでロビーに降りるまでの間、ドア側に立つその華奢な背中は
やけに姿勢が良くピンッと張り詰めたような凛々しさがあり、気高いイメージがした。
また、こういう女性にはセットだと思っていたくどい甘さの香りに酔うことも無かった。
ドアが開き、先に立ち去って行く彼女の歩き方はリズミカルで、何の躊躇いも無く前を向いていて
小気味良い気分にすらなれた。

何よりも、その残り香は洗い立てのコットンのような、春の太陽のような
温かくすがすがしい香りだったのが意外で、そして印象的だった。
 
 
「メシ・・・食わせて。」
 
 
どうしてこんなことを口走ったのか?自分でも不思議だった。
けれどもあのトロイメライと、彼女の香りが忘れられずに心のどこかにあったのは事実で
それは自分でも珍しく、他人に対する【良い印象】として記憶されていた。
 
 
「あなた、お名前は?」

「ユン・ジフ。」

「私は牧野つくし。日本人です。ユンさん、苦手な食べ物とかありますか?」

「・・・。肉?」

「何故に疑問形・・・?まぁ、いいわ。お肉ね。あとは?もう無い?」

「・・・。辛いもの・・・。」

「ブッ。韓国人でも辛いの苦手な人っているんだっ♪私もあまり辛いのは得意じゃないんです。
韓国の方の口に合うかはわからないけど、日本の家庭料理で構わないかしら?」

「・・・うん。多分。」

「そうね、今ならなんでも食べられるかもね!で、どれ位食事して無いの?」

「え?」

「だから、何日ぐらい、ご飯食べていないの?私の予想だと3日くらいだと思うんだけど・・・?」
「すげっ。どうして解るんだ?3日とちょっと?かな?」

「じゃ、お腹に優しいものにしましょう。さ、歩ける?手を貸す?」

「・・・歩ける・・・。」
 
 
彼女がスタスタと歩く背中をよろよろと付いていきながら、そんな自分が可笑しくなった。
敬語とタメ口をチャンポンする彼女の韓国語は、まだ少し不慣れなようだったが
サラサラと吹き抜ける秋風のように湿度が無く、心地良かった。
 
クツクツと笑い出した俺を、不思議そうに振り向きながら「おかしな人ね?」と言った後
ニッコリと笑って「さぁ、着いたわ。間取りが一緒かは解らないけど、大差ないでしょう。
適当に寛いでいてくれていいですから。私は大急ぎで何か見繕ってくるわ。」と。
 
 
屈託無く俺を招き入れたけど、俺は呆然と固まってしまって一歩も動けなくなってしまった。
 
 
そんな俺を、空腹の所為で限界を迎えたに違いないと判断したらしい彼女は
ヒールを脱ぎ捨てた裸足のまま、俺の後ろに回って小さな手で俺を押し入れた。
 
 
俺は驚いていたんだ。
 
 
初めて見た彼女の笑顔があまりにも美しかったことと
彼女の背後に見える、ワンフロアぶち抜きの広々とした空間が
 
 
あまりにも空虚で。