ジフに連れて行かれた美術館は・・・

現在李氏朝鮮時代から現代までの韓国文化の変遷を企画展示しているお気に入りの美術館で
これまでもこの美術館の企画展は、常に欠かさずに訪れていた私。

まさかそこが、ジフのお爺様の財団が所有している美術館だったとは・・・・。
 
美術館から出るとそのまま吸い寄せられるように外のベンチに腰かけて
ジフが何処からか買ってきてくれた、あまり美味しいとはいえない紙コップのコーヒーを
飲みながら2人でとりとめも無く先程の展示物の話から、其々の印象などを楽しく話していた。
ふと合間に訪れた沈黙を「そういえば」と世間話のように、何気なく破ったのは私だった。
 
 
「さっきから考えていたのだけど、F4のメンバーにジフがいるって知って
きっとジフがバイオリニストの人だとは思ったんだけどね・・・
でもまさか、この美術館もジフのお爺様の財団が所有していたなんて・・・
ごめんね?美術に興味があるか?なんて偉そうなこと言っちゃって。
ハァ・・。恥ずかしいわ。」

「そんなことはいい。けど、なんで俺がバイオリンを弾いていると思ったの?」
 
 
ジフがF4なら、バイオリニストは彼だと思った。

どうしてだろう?その事に私は一瞬も疑問を感じなかった。

1+1=2、というのと同じくらいに
考えずともその答えは私の中で当然のように収まっていた。

だからジフの質問に直ぐには答えられず、私は自分の心に問いかけてみることにした。

するとある場面が、ボウ、と私の瞼の裏に浮かび上がってくる。

それから次々と点として存在していたユン・ジフという男の印象が
一定の法則を持って繋がっていき、1つの人間像を形成していった。
 
 
「あのマンションは完全防音がウリだったでしょう?
だからきっと音楽をやってる人かなとは思っていたの。
ジフの部屋に行ったとき、凄く読み込んだ楽譜があった。
他のものには触れてもいない感じだったのに、楽譜が置いてあるところだけは乱雑で。
譜面はどれもボロボロになっていて、あなたの存在を強く感じたの。
F4のうちの1人は音楽家一家で本人はプロのバイオリニストだって聞いていたから
あの部屋での印象と自然と重なってたんだと思う。
あの楽譜が教えてくれたの。あなたがどれ程音楽に真剣に向き合っているかって。
だから、あの先輩のジフに対する言葉はどうしても許せなかったのよ。」
 
 
最初彼と話したとき、花沢類に似ている人だと思った。
けれども実際は真逆のような人だった。
 
 
呼吸をするようにバイオリンを弾いていた花沢類は
私の非常階段のような人だった。

決して自分の感情を相手に押し付けず
けれどピンチの時には必ず助けてくれる安心感があった。
 

ジフは穏やかな静のイメージだったのは最初だけで
実際はかなり情熱的だし無類のいたずらっ子だ。

押し付けることはないが、気付けば彼の思うように動かされている自分に
苦笑することは度々だったし、何より彼は待つだけとか、耐え忍ぶとか
そういう受身のイメージの人ではなかった。

どちらかといえば、仕掛けるタイプの人間だと思う。

そして物事を見る目は非常に多角的で柔軟なのに
意志を貫く為ならばどれだけでも無骨に不器用になれる人。

そしてそんな自分を誰にも見せない人。
 
知れば知るほど2人の印象はかけ離れていき、表面的に似たところはあっても
それはホンの一面に過ぎず、この頃ではその本質を重ねることは一切無くなっていた。

だから花沢類のバイオリンをジフの外見上の王子様的なイメージと結びつけたわけではなかった。
 
 
2人の最も特出すべき違いは、その音楽に対する姿勢だったのだから。


特にそれは有り得なかったのだ。
 
 
多くの楽譜が乱雑に積み上げられたコーナーは、全てが男性的で乱れていた。

開かれたままの譜面には、書き殴ったような書き込みが幾つもしてあり
場所によっては書き込みすぎて音符を読み取ることすら出来ないような状態で・・・。

それは時にぐしゃぐしゃと黒く塗り潰され
彼が苦悩と熟考を何処までも深く重ねている様が容易に読み取れた。

そこには一ミリも【妥協】という文字は無く只管に向き合う情熱が感じられた。

おそらく・・・。

これをやり始めれば彼は寝食を忘れて取り組むのだろう、と思われるほどに・・。
 


ジフはそういった意味でプロだったのだ。



自分の為だけに弾くのならここまでする必要は何処にもない。
チケット代を払い、それを聴きに来る者達の存在を彼は何処までも見据えている。
弾きたいように弾くのではなく、聴かせる為に、そして満足させる為に弾く。
それが天地ほども違う作業だということを、その譜面たちは赤裸々に語っていた。
 

はっきりとした信念を持った、音楽に対する意志が
その音をその様に奏でる理由が、ジフにはある。

そうでなければいけないと、彼は己に強いてすらいる。


精一杯の能力でそれを最高の高みにまで昇華させようとする情熱は
花沢類には、感じたことの無いモノだった。

音楽に向かう姿勢も、その在り様も。

彼らは【全く】と言っていいほど似ていなかったのだ。

ジフはとても大人で、そして多くの責任をしっかりと理解し
それを背負い、地に足をつけている。

大きな包容力を持った人なのだと

そんな自分の一面をおくびにも出さずに飄々としながら
孤独に努力し続ける彼の姿を垣間見て、つくづく思ったのだった。
 
 
「つくし、お礼がまだだったね。ありがとう。あの時俺を庇ってくれたんだろ?」

「違うのよ。ただ、腹が立っただけなの。どうしてか解らないんだけど、無性に腹が立ったの。
昔の私ならきっとあの人を殴っていたと思うわっ!!」

「え?」

「私ね、昔あんまりにも腹が立って男の人を殴っちゃったことがあるのよ。
そういう感情的なところを徹底的に直されたんだけど、やっぱり駄目よね。
私なんかにレディは似合わないって、今日もつくづく思い知ったわ。」
 
 
そう・・・。私はあの時、ソ先輩を一瞬本気で殴りかけた。
それを押し留めたのは楓社長の言葉だった。


「暴力で解決するのは子供のすることです。絶対の知性で相手をねじ伏せなさい。
子供2人はその教育に失敗したけれど、貴女はそれを忘れてはいけませんよ?」


大して面白くもなさそうに仏頂面で笑えないジョークを言いながら私の短気を戒めてくれた。
アレを思い出さなければ絶対に殴ってたと思うと、やっぱり私は付け焼刃の淑女でしかなく
一皮剥けば、今でもやはり唯のガサツな女でしかないのだと、自分の不甲斐なさに凹んでくる。
 
 
「いや。十分素晴らしいレディだったよ。それにとてつもなくハンサムだった。」

「ハンサムなレディ・・・ね・・・。
確かに私には、そういう男らしい形容詞がお似合いよね。」
 
 
私をハンサムだと言うジフを横目に視認しつつ
こんな綺麗な男にハンサムと言われても嫌味にしか聞こえないんですけど・・
と密かにやさぐれてみる。時々肌を刺すような風が吹く今日の気候はピッタリに思えた。

自分に対してのそんなこんなの不満を感じるのには慣れているはずなのに

モヤモヤしている私の隣りで、いかにもその雰囲気に不似合いな
紙コップの安そうなコーヒーを口に運ぶ姿さえサマになっていて
今日は何故か大変ご機嫌で、今もノンビリと長い足を投げ出して寛いでいる男に
理不尽にもぶつけてしまいたくなったのかもしれなかった。

そんな経験は一度も無かったのに・・。

どうしてジフにはいつも私は酷く弱い自分をさらけ出してしまうのだろう。

今もまた彼の言葉にポロリと心の鎧が1ピース剥がれ落ち
愚痴のように口から零れ落ちたのを、自分の発する声の弱さで知る。
 
 
「馬鹿つくし。ハンサムは元々男女共に使われる褒め言葉だよ。
立派な、堂々としてる、知性がある、そんな人間に対して使われる言葉で
ハンサムなレディなんて最高にクールだろ?」

「そうなのっ!?日本ではカッコいい男の人に使う言葉だよ!?」

「取りあえず外見が美しい場合にはまずhandsomeとは言わない。
good lookingとかが一般的じゃない?」

「あ、そっか。そうよね。
英語でhandsomeって美男子には使わないわよね?あれ?ってことは?」

「言葉は国境を越えると意味や使い方が変わったりするからね。
例えばほら、この前言ってたチゲ鍋?何故チゲに更にチゲ付け足すのかっていうアレ。」

「っ! そう!韓国風の鍋料理を日本じゃそう言うけど、チゲって鍋って意味なんだよね。
訳せばナベナベ?・・・あぁ、そういうことかぁ。また1つ勉強になったよ!
Handsome Lady、立派で知的な女性・・・、なんだかカッコいいね。」
 
 
私のそんな惨めったらしい愚痴は、自己反省する暇もなく
彼の一言が一陣の風となって一瞬で吹き飛ばしてしまった。

お互い外国人同士な所為か、それとも彼がわりと何に対しても博識な為か
彼との会話には時々こうやってカルチャーショックを受ける。
 
その度に小さな世界しか知らないまま
自分自身を縛り付けてしまっていたことに気付かされ
その度に私の心は柔らかく軽くなり、呼吸が急に楽になる。
 
ホッと息をついて冷めたコーヒーを啜りながら、
隣りで何やら考え込んでいるジフを横目で観察する。

綺麗な人だと思っていた。

顔が美しいだけでなく
多分骨格から美しい全部が完璧なバランスの。

だけど段々と、こうやって色々と話すうちに
綺麗だとか美しいという外見上の彼の美点以上に
その心のバランスの良さやストイックなまでの努力の仕方という
内的な美点に目が行くようになった。
 
最も尊敬するのは彼独特の空気感のある気遣いで
今まで私が出会ったどんな人よりも、無意識に素直になれてしまう事だ。

甘えることに不慣れで、優しくされると身構える私を
彼はいとも容易く甘えさせてしまうのだ。
 
広くて大きな彼の心は初夏の草原のように心地良く
こうして隣りに彼がいるだけで、全ての緊張から解き放たれるような気がする。

彼といる時の私は自分を律することも批判することもなく
ただ彼の醸し出す世界に湯気の様に揺蕩っていられた。
 
彼のその空気に触れている時だけは、私は【雑草の牧野つくし】であることを忘れられ
ただの弱くて脆い、何処にでもいるハタチの女の子でいられる気がした。
 
 
 
 
いつも自分自身を叱咤激励して生きることは当たり前だった。

幼い頃からその傾向にあったところへきて
いきなり飛び込んだ恋人の住む世界がトドメだったと今なら分かる。

そうじゃなければ生きられないから身に着けた術を、処世術というとか。
殆ど無意識に思考回路が慣れた動きをしてしまうのも、その一種なんだろうか?

【雑草のつくし】を好んだ男との、最後の別れすら笑顔で臨んだ自分を
あの男は確か、何かひどく痛ましいモノを見るような顔をしてから不意に背けたのだった。

いつもひとを射殺すように見る男の珍しい姿に
驚くよりも先に揺れた感情は、何だっただろうか?

色々あった最後にそんな謎の行動を見てしまったせいなのか
私はずっと今もまだ、そんな自分を誇ることが出来ないでいる。
 
涙の1つも見せられない素直じゃない自分も

自分を本心求めていない男と解っていながら
なりふり構わずに縋ることを好しと出来ないプライドの高い自分も

今後の友人関係を考えて、奥さんになる人に妙に愛想良くしてしまう小賢しい自分も
 
 
全部が嫌いだった。


嫌いな自分ばかりが目に付いて。
早くあの場を立ち去りたくて。


済まなそうにしていたはずのあいつが「お前はどうして最後まで慌しいんだっ!」と
逆ギレするくらいバタバタとその時間を切り上げてしまった。
 
仲間に会えば皆私のことを心配してくれていたのに
それが可哀想なものを見る同情の目に見えて
それが居た堪れなくなって無理矢理に元気を出せば
やっぱり彼らは痛ましそうに顔を歪めた。
 
そんな風にさせてしまう自分が嫌で
何より、心配されることを素直に受け入れられず
ただ【嫌だ】と思う自分がどうしようもなく醜い人間に思えて・・・・。
 
だからそんな目で見られないで済む場所まで逃げて、この国まで来たのだ。
自分を認められず、矮小で、狡猾で、可愛げのない女にしか思えないから
そんな自分の暮らしなんてどうでも良かった。
 

ただ心臓が動くから鼓動をして
死んだわけじゃないから息をして
お腹が空くからごはんを食べた。


国外まで逃げたのに・・・


私は最も逃げ出したいものからは絶対に逃げ出せなかったのだと
この国に来てから漸く気がついた。


・・私は私自身から逃げたかったのだ・・
 
 
恋なんか出来なくて当たり前だった。
 
 
私は自分が大嫌いで、そんな私を好きだと言われれば
その人は【私の嫌いなものを好きな人】にしか思えなかったのだから・・・。

自分の嫌いなものを好きだという人を、好きになれるはずも無かった。
 
 
実際の私はHandsomeなLadyからは最も遠い場所に存在している。
 
 
 
 
 
 
ふと視線を感じて、ボンヤリしていた焦点をゆっくりと合わせていくと
さっきまで何か考えている様子だったジフの、私をジッと見つめる薄茶の瞳と目が合った。
 
 
「ねぇつくし。あんたはもう少し自分を好きになれよ。
だって人は誰よりも自分自身とは、どうしたって長い付き合いになるんだから。」
 
 
ジフはとても真剣な顔をして、唐突にそう言った。 
 
そして・・・・。
彼は言ったのだ。

まるで明日の天気の事を話すように軽々と
何でもない事の様に。
 
 
「もっと認めてやれよ。可愛がって大事にしてやれよ。
友達や恋人は別れりゃそれまでだけど自分とだけはそうはいかないだろ?
つくし、あんたはあんたに愛されるだけの価値のある女だよ。」
 
 
 
 
信じられないモノを見るような
そんな目をしていたんじゃないかと思う。


そんな私を、ガラス玉のビー玉とは違う複雑な輝きに満ちた虹彩が
何かとてつもない真剣さで私を捕らえて、真実のもっと奥まで見通すかのように離さない。


「やっぱりそうだったのか・・」


ようやく満足したのか、ジフはそう静かな声で呟くと
音楽を奏でるようにフワリと微笑んだ。