暫くヒョンの家の傍で車列が停車する。
 
一体何事か?と思い始めた頃、再び動き出したのだが今度は邸の門前をゆっくりと通り過ぎた。
警備の厳重さだけでなく、普段と全く違うこの動きにも激しい違和感を覚えた僕達は互いを繋ぐ手を
更に強く握り合わせて、落ち着かない気持ちを何とかやり過ごした。
 
再度停車し、イギサ達が僕達の降車の為の通常警備配置についたのを見た時は
ホッとすると共に驚嘆を隠す事は出来なかった。
 
 
僕達だけじゃない。上皇陛下もご一緒だというのに、ここは・・・・・・・!?
 
 
 
 
 
 
 
「太子、チェギョン。何をしておる?行くぞ。」
「「・・・は、はい・・・・。」」
 
 
物慣れた風情で先を歩く上皇様の後を、チェギョンと手を繋ぎながら付いて行き
上皇様に倣って小さな門を少し屈むようにして潜り入ると、そこはどうやら裏庭らしい。
少し歩くと見覚えのある景色が現れた。丁度蝋梅の光沢のある半透明の黄花が盛りらしく
一瞬その場にいる者達の足を止めさせるほど甘くふくよかな良い香りを放っている。
 
 
『蝋梅の隣りの木は多分寒紅梅であとひと月もすれば八重の濃桃色の花がまた香り豊かに
咲き始め、その次は奥の白梅の花期となるはずだ・・・・。』
 
それはこの景色から呼び起こされた、記憶の中から発せられるもう1人の僕の声・・・・・・。
 
 
 
これはお爺様の奥方の梅園だ。
 
 
 
香りの良い梅ばかりを花期をずらして手前から順に咲くように植えて、とても大切にしたという
梅花を愛する女性(ひと)を偲ぶようにここは毎年数ヶ月の間美しい香りに包まれるのだと
聞いた事があった。
 
その話のときに加えて聞いた話があった。あれは確か・・・・。
奥方が亡くなった後、この庭を愛でる為にソギョンお爺様が書斎を作った・・・・・だったか?
 
 
 
繋いだ手から何かを感じて左肩越しに見下ろすと隣りのチェギョンが僕を見上げて
コクリ、と頷いて見せた。そうか、チェギョンも同じ事を思い出していたか・・。
僕達は互いを見合ってもう一度頷き合うと、蝋梅の香りを全身に纏いながら
数日前に降った雪を踏まぬように、掃き払ってある石畳の上をゆっくりと歩いた。
 
日が差す辺りまで来ると、太陽が白い雪に反射して目が痛いほどに眩しい。
一瞬視界がフラッシュを浴びたように真っ白になって立ち止まった時、耳慣れた声が聞こえた。
 
 
 
「ソンジョ、シン、チェギョン。よく来たな。とにかく入ってくれ。それとイギサは全部車に返せ。
この邸はネズミ1匹入れやせんからイギサ長、お前さんも安心じゃろ?クククッ」
 
 
 
この国の上皇陛下をくぐり戸のような裏口から招き入れても謝罪の1つもなく
泰然と笑う姿はまさしくこの人らしいと思われたが、何処か焦っているように感じられるのは
何故だろうか・・・・?もうここへ来て何個目になるのかも分からない違和感を更に膨らませつつ
気のせいか少し足早になった上皇様の後に続いて、直接彼の書斎へと招き入れられた。
 
 
 
 
 
 
 
「シン。何をそんなにぶすくれておるんじゃ?」
「ぶすくれ・・?」
「今のお前みたいに不貞腐れてムスッとした表情のことじゃよ。で?何でだ?」
「ハァ~・・・。何でだ?って仰いますか?・・・何もかもですよ!何故コソコソとあんな小さな
裏口のようなところから入らねばならないのですか?それにそもそもなんで僕達はヒョン達に
会ってはいけないのです?それからあの警備の厳重さも!ついでに何でこんな所に
閉じこもっていなければならないのですか!?」
 
 
これまでの違和感や苛立ちを吐き出すように話すうちに、知らず興奮してしまったシンを
苦く笑う2人の老人は顔を見合わせると、1人は知らん顔をして1人は溜息を吐いた。
 
 
「ソンジョから何も聞いていないならお前の気持ちも判らんでもない。
が、シン。今お前が言った事全ては、【そうする必要がある】から・・・が理由じゃ。
当たり前じゃろう?友とは言えこの国の上皇とその孫の皇太子であるお前もだが
チェギョンだって裏口から招き入れるような格の客ではない。普通はな?」
「・・・・?」
「ソギョンお爺様・・・。それでは今は【普通】ではない事が起きているという事ですか?」
「チェギョンの方がシンよりも冷静のようじゃな?皇后代理をよく務めていると聞くが
納得じゃな。クククッ。・・・・チェギョン。そういうことじゃよ。今我が家は【普通】じゃないんじゃよ。」
「「???」」
 
 
禅問答のようなソギョンの言葉にハテナ顔をした2人の子供達を見て
今度はお前が話せ!とばかりにソギョンが上皇をジロリと睨む。
 
 
「うーむ・・。どう言えば良いかのぅ?お!そうじゃ!太子、チェギョン。
そなた達はジフが本気で怒ったところを見たことがあるか?」
 
 
顔を見合わせ少し考えた後に、上皇を見てフルフルと首を横に振る。
 
 
「儂達も無い。そして見たくも無い。あの良く切れる大鉈のような思考回路が
全部怒りに染まったら・・・・・。儂は考えるだけでも恐ろしい・・・・・。だからじゃっ♪」
 
 
それはきっと、絶対に恐ろしい・・・・・。
生きながらにして、この世とあの世の地獄をダブルで見られるに違いない・・・・。
 
ブルッと身震いしつつも、何処かでなんだか2人の老狸に上手く化かされたような気がして
釈然としないものがある。けれどヒントは与えられたのだと思った。
 
 
 
今、何かとても大変な事が起きていて、それはきっとヒョンの宝物に関係する事なんだろう。
もしその宝物を脅(おびや)かすような事があれば、ヒョンは誰であれ容赦無く怒りのままに
大鉈を振るうに違いない、という事らしい。そこまでヒョンを変えた女性がいるのか・・・・・?
 
 
 
「あ・・・・、これって、ヘグム?それに・・・・」
「ヒョンのバイオリン、だな。・・・・ムーン・リバーか?」
「おお!スリョンは随分上達したようじゃの?曲が弾けるようになったんじゃな~♪」
「ふふ。今度褒めてやってくれ。喜ぶぞ?・・・・あと30分くらいか?」
「そうじゃな。それまで茶でも飲んで待つとしよう。」
 
 
 
 
 
 
時々ヘグムの高音が引き攣れる。その度に2つの音は止まり、何度か部分的に練習するらしい。
それからまた2つの楽器は同じ曲を奏で始める。音は徐々に温まり色彩を増やしていく。
 
 
暫くして今度はバイオリンの美しい音色で前奏部分に見事なアレンジが施されて曲が始まった。
 
 
主旋律はヘグムが担当し、時にまろび、テンポも僅かにズレるのだが
まるでそれが本来の曲調であるかのように、バイオリンのオブリガードが主旋律を支える。
 
カバーをしているとは思わせない、それ自体が完成された一遍の美しい詩のようであり
伸びたり縮んだりするテンポは、それを詠む間合いのように思える。
 
 
本来誰もの脳裏に旋律が容易に思い浮かぶ程有名な曲でこのようなことをするのは難しい。
(無)意識化でなぞる曲と流れてくる音がズレれば、それは当たり前のように違和感となり
曲の躓きとして捉えられるのが普通だ。感覚に直結しているので修復は不可能に近い。
 
これほどの事が出来るのは、我が国の楽聖か?と騒がれたこともあるヒョンだからこそ
出来るという事もあるのだろうが、それよりもヘグムを弾く者を何者からも守り支えるという
意思があるからこそ、これほどまでに息を合わせられるのだろうと思う。
 
 
 
 
 
 
ムーン・リバー 水面に広がる遥かなる月影の河
私は、この「あなた」という河の真ん中を
いつか堂々と渡ってみせるわ
その昔・・・夢をくれたのもあなた
そして何も言わずに去って行ったのもあなた
でも私はあなたの行くところなら
たとえどんな所だって追いかけていくわ


私たち二人 今日もそれぞれどこかの世界をさまよう旅人
こんなにも知るべき世界があったのね
でも結局最後は私たち
あの同じ虹の向こうできっとまた会える
だから、あのムーン・リバーを越えた
虹の角あたりできっと待ってて
私の親愛なる友だち 
ムーン・リバー・・・あなたと私
 
 
 
 
 
 
ムーン・リバー・・・平易な曲だから練習にと選んだのだろうが、この曲の歌詞は奥深い。
【私】は主旋律のヒトなのだろうか?それともヒョンか?何れにしても2つの音は互いを
付かず離れず、まるで遺伝子の二重螺旋のように配されていき、始まりと同じように
バイオリンの音でフィナーレを迎え、余韻を残して終曲となった。
 
 
「凄いわ・・・・・。本当に月明かりにキラキラ輝く河面が見えるみたいだった・・・・。」
 
 
ホゥ・・と感嘆の吐息を混ぜながらそう言ったチェギョンの言葉に深く頷いていると
ソギョンお爺様が徐に立ち上がり、木製のブラインドの角度を少し調整し始めた。
 
 
 
 
「シン、チェギョン。まずは見ていなさい。百聞は一見に如かず、と言うじゃろう?」
 
 
 
 
その表情は何かを企んでいる時のヒョンによく似たもので、僕もチェギョンもゾクッと
背筋が冷えたのは、あの黒天使のヒョンがトラウマになっているのかもしれない・・・
 
などと、ヒョンが聞いたらきっとニヤリとほくそ笑みそうな事をぼんやり考えながら
そっとチェギョンの腰に手を回しつつ、視線を窓に固定してその時を待つことにした。