やはり・・・あの者が動いているのだ・・・。
 
貴人達の部屋を辞したヒジンは、胸中でそっと呟いた。
 
 
 
 
 
目端の利いた聡い幼子は、子供の無い叔母に随分と可愛がられた。
長じてアメリカの大学まで留学させてもらい、その恩に報いようと必死で何事にも取り組んだ。
そんなある日、バイト先に優しい光を湛えた緑の目が印象的な紳士が訪ねてきた。
 
 
「将来、宮の為に働くつもりならば、あなたの数年間を私に預けてはみませんか?」
 
 
そんな奇妙なことを言う異国の人を、あのときの自分が何故信用したのか?
運命に導かれたと思うより他に無いかのように、スンナリとその言葉を受け入れた自分は
当時あの国で最も巨大な財閥の長に言われるままに、CIAに入局した。
 
 
 
 
 
彼女の人を見抜く目は、そこで大いに発揮されて、彼女の出身大学の先輩でもある
19代CIA長官の改革によって、諜報活動の重点がヒューミントに置かれて以降は
人間やメディアを介した諜報活動に長けた彼女は異例の出世を果たした。
 
当時、合法的なカタチでの諜報を旨とする彼女のチームとは別に存在していた
暗殺や破壊工作を行う謀略活動を得意とする者達が、長官の改革に反発するように
多くの退役職員となった事は有名な話だが、その中に自分と同じ国籍の男が1人いた。
 
 
【 ペク・チュンハ 】
 
 
ひどく厭世的な瞳が印象的な、野犬のような獰猛さを、礼儀正しさの裏に隠し持つ男だった。
彼女の勘が彼に近付くことを嫌い、見かける以外の接触もないままに彼は退役していった。
彼女の人生を、ホンの一瞬通り過ぎただけの存在であるはずの男が、実は浅からぬ縁であったと
知ったのはそれから数年の後、モーガン氏の依頼でヘミョン皇女の監視についた時の事だ。
 
 
ペク・チュンハは野犬ではなく、元皇太子妃、ソ・ファヨンの飼い犬だったのだ。
 
 
今回の敵方の動き方には、懐かしさに似た古巣の香りがヒシヒシと感じられる。
おそらくは彼が王族達を扇動して動かしているのだろう。・・とすれば、当然飼い主が裏にいる。
 
 
 
 
 
焦ってはいけない。
 
自分の存在が相手に知られることも絶対に避けなければならない。
 
 
 
自分が彼の存在を、そのハカリゴトの中に、影や香りのようなカタチで見つけ出したのと同じで
自分の姿は知らなくても、そこにかの国の諜報機関の香りを残すことで存在は露呈するのだろう。
 
 
 
一切の痕跡を残してはいけないのだと、静かに心に楔を打ちながら、ふと思い出した。
 
 
 
 
 
インテリジェンスと呼ばれる活動を得意とした自分とは違い
確か彼はミリタリー・インテリジェンスが得意だったはずだ。
 
長きに渡る冷戦の時代が終わり、過去の遺物となりつつあった彼等の力ずくな謀略は
21世紀の国防に最も効果的だと評されたこちらの知謀と、果たしてどちらが有効となるのだろう?
 
 
 
「フフッ。ゴス長官の改革が果たして正しかったかどうかが、アジアの片隅で試されるなんて
面白いじゃない♪我々の母校のモットーであるLux et Veritas(ラテン語「光と真実」) って
とこかしら?これは益々負けられないわよね~~~♪」
 
 
 
物事は難解なほど良いのだ。退屈することだけは我慢が出来ない性分なのだから・・・。
 
 
 
 
 
 
 
あれこれと考えを巡らしながら、ようやく自室へ戻った彼女は女官見習いの制服を脱いで
ジーンズにハイネックの黒いセーターという寛いだ姿になると、まだ大学生だと言っても
通用しそうな己の姿を鏡に映して不愉快そうに鼻を鳴らす。
 
それから徐にベッドの下から大きめのスーツケースを引っ張り出すと、ベッドの上に乗せ
慣れた手つきでダイヤル式の鍵を解除してそれを開ける。
 
様々な電子機器と、幾つかの通信機器の中から、ひとつの携帯電話を取り出すと
着暦の有無を確認してホッと安堵の息を吐いた。
 
 
イレギュラーな出来事の所為で、これから来るであろう大切な情報源からの連絡を
取り損ねるのでは?とヒヤヒヤしていたのだ。
 
 
携帯の中の時計機能は、彼女の慣れ親しんだ国の東海岸の現在の時刻を示している。
既に深夜といっても良い筈の数字を読み取って、今日中に連絡は無いのかもしれないと思う。
今夜は特別な1日となるだろうあの屋敷で、動きがあるなら今日だと思っていたのだけれど
自分の勘も、この時を忘れたような場所にいる内に、少々錆び付いてきてしまったのだろうか?
 
 
だとしたら・・・、ちょっとマズイな・・・
 
 
大して深刻そうでもなく皮肉気に己を突き放して嗤うと、もう関心は他にすべき事へと向けられ
明日にも動き出すつもりの宮殿内の敵方の炙り出し方法について思索を始める。
考えるべきことも、巡らせなければならないトラップも、数限りなくあるのだから
時間はいくらあっても足りず、あっと言う間に部屋に戻ってから1時間弱の時間が過ぎていた。
 
 
その時、先程確認したのとはまた別の携帯が着信を知らせてきた。
 
 
数分間、通話相手と短いやり取りをした後、彼女は再び先程の携帯を取り上げると
まるで今度はこれが鳴り出すのだと解っているかのように、ジッと画面を見つめて待つ。
 
 
1分・・・・3分・・・・5分・・・・・
 
 
やはり今夜ではないのだろうか?【ある出来事】は、自分の予想したとおり起きた筈だった。
それは先程の連絡からも確信できた。問題はなぜ、この携帯が鳴らないのか?という事だ。
あの頑ななまでに雇い主の家に忠実だった者は、それなりに多くの時をかけて説得し
悲しいほどに純粋で穢れ無き魂を守る為に、そしてこれ以上事態を悪化させない為に
しっかりとした協力関係が築けたと思っていたのだが、何か変調を来たす事態にでも・・・・?
 
 
 
Tru   ruru ・・・・  Tru   ruru ・・・・
 
 
 
情報提供者しか知らないナンバーの携帯が、ようやく着信を知らせて沈黙から目覚めるように
自分を呼び始めた。3回、4回・・・・5回目のコールが鳴り始めるのを待って通話ボタンを押し
耳に当てると、先方が何かに怯えるように震える声で話し始めた。
 
 
 
 
「もしもし・・・。」
 
「久しぶりに、彼等が一同に会したようですね?それで・・例の話は出ましたか?」
 
「はい。坊ちゃんと他の皆様は決裂いたしました。」
 
「・・・でしょうね。で、その後の彼の様子は?」
 
「はい。納得はしてらっしゃらないようです。」
 
「フッ・・・。何処までも愚かな・・・。まぁ、いいでしょう。
タマさん、私との約束、忘れてはいませんよね?」
 
「はい。出来る限りのことはしますが・・・私ではもう止められないかもしれません。」
 
「もしも、再び彼がつくし様に関わるようなことがあれば、我々は我々の持つ力の全てを使い
道明寺財閥を灰塵にする覚悟です。これは脅しでは無く、モーガンの総意であり決定事項です。
信じていただけないのでしたら、明日にでも実行に移してみましょうか?
会長は既にその準備を終えられておりますから、ホンの一言GOサインを出すだけの事。
そうなったら、あの馬鹿坊ちゃんはただの馬鹿になる。あなたにも止められないのであれば
彼を止められる抑止力は何処にも存在せず、野放しにするには危険すぎる獣と同じでしょうし
いっそ、その方がお互いの為になるのかもしれませんよね?」
 
「・・・・それはっ!!」
 
「ねぇ、タマさん?我々はあなたにそれ程多くの事を望んでいるのではありません。
ただ、つくし様に今後一切彼を近づけないで欲しいと申し上げているだけです。
そして我々は道明寺を塵芥にしてしまいたい程憎んでいますが、つくし様が悲しまれることを
したくないが為に、様々な思いを飲み込んで耐えている事をご理解いただきたい。
つくし様は道明寺によってあまりにも多くのものを失われ、今も心に深い傷を抱えながらも
ようやく少しずつ新しい人生を踏み出し始められました。以前あなたは仰いましたよね?
つくし様を実の孫のように思っておられると。あの方の幸せを願っておられると。
くれぐれも言っておきますが、あの方の幸せは最早道明寺の名の下には存在しません。
既に道は分かたれたのです。そもそも、元々交差していたのかすら怪しい縁です。
これ以上つくし様を苦しませたくないとお思いでしたら、あの獣とその家族をよく監視して下さい。
【牧野つくし】 という女性は、過去にも未来にも、何処にも存在していないのですから
亡霊を追おうなどという、無意味なことは為さらない様にお願いします。宜しいですね?」
 
「・・・・はい。分りました・・・」
 
「タマさん・・。それでも、もしも、が起きてしまった場合には連絡して下さい。
我々は、あの方の笑顔をなんとしても守り抜きたいのです。それと・・・・・・
これは私の独り言ですが、あの方は声を3日程前に取り戻されました。
そしてきっと、この国で掛け替えの無い存在になられることでしょう。
あの方は、誰の事も恨んではいらっしゃいません。ただ、全てはご自分の所為だとだけ・・・。
今あの方の隣りには、あの方を心から守り抜く覚悟をされている騎士が附いていらっしゃいます。
その方の前ではとても幸せそうに微笑まれ、発作に襲われた時もその方に支えられて
手を取り合って、乗り越えていらっしゃいます。時には甘える様な仕草もされるそうですよ?
会長はそんなあの方を見た事が無いと言って、とても驚いていらっしゃいました。
タマさん、これは運命だったのではないでしょうか?・・・・・・それでは。」
 
 
 
 
 
あの、矍鑠(かくしゃく)とした小さな老婆の背が震えながら泣いている姿が見えるようだった。
息を殺すように、嗚咽を噛み砕く僅かな音がヒジンの耳にいつまでも消えずに残った。
 
 
 
冴え凍る十二夜の月が、宵闇を薄めるように照らす頃になっても・・・・・・。