いつもと寝心地の違うベッドの所為だろうか?
 
 
浅い眠りを繰り返し、夢と現の狭間を揺蕩っていたシンは、自分が抱えているはずの温もりが
感じられない事に気付くと同時に、慌てて飛び起きると辺りを見回した。
 
彼のこの行動は最早反射に近く、チェギョンが苦しみもがいたあの一年ですっかり習慣化した恐怖で。
覚醒と同時に彼の背を這い登るのは、ゾクリと冷たい悪寒に似た焦燥だ。
 
タンクトップ一枚の上半身の露出した肌が粟立つのは、寒さの所為か恐怖ゆえかは定かではない。
そんな瑣末な事に頓着する余裕は有る筈も無く、シンはガウン代わりのロングカーデに袖を通すと
月明かりの青白い薄闇を掻く様にしてドアに辿り着いて、部屋を出る。
 
 
どこだ・・・?どこへ行った?
 
 
泣いてはいまいか? 独り、苦しんでるのではないだろうか?
いつだってこんな時は、嫌な予感ばかりが胸を過ぎって掻き毟る。
 
闇雲に広い邸内を走り回っても・・・。と一瞬冷静な自分がそう諭してくるが
それを振り払うようにして、シンは走り出した。
 
幼い頃の朧な記憶を頼りに隈なく探しても、愛しい者の影さえも踏めない。
 
恐怖を垂らし込んだ耐え難い孤独が、俄かに彼に襲い掛かり闇夜の鳥の視界も斯(か)くや
とばかりに、彼女に繋がるもの以外の全ての輪郭がぼやけて来るのは、シンには馴染みの感覚で。
それを意志の力だけで払いのけつつ進める足は、ズブズブと鉛のように重くなるのもまた・・・・。
 
再び邸内を見渡して、そこでチリ、と引っかかる違和感に視線を定め思考を巡らせば
記憶に無い廊下の存在に漸く気づく事が出来た。
 
 
暗い廊下の先には、仄明るい光が揺れていて、僅かに音楽と判る程度の音が聴き取れた。
 
 
導かれるように、足音を消し去る毛足の長い絨毯敷きの廊下を進めば
そこだけがクローズアップされる、シンだけの持つ感覚でチェギョンの姿を視認する。
 
 
「チェ・・・」
 
 
ホッと安堵の思いで、彼にとって特別なその名を呼ぼうとしたが、彼女の視線を追った彼の声は
喉に張り付いたように固まって、それ以上の音を出す事を固辞したのだ。
 
フゥ~~・・・。
 
チェギョンが見つかった安堵と、ワケも無く逸る心拍と・・・
それらの相反する作用に戸惑う五感全てを一旦落ち着かせるように、緩く、そして深く息を吐く。
 
其処からは慎重に歩を進めて、彼が唯一落ち着けるポジションに納まると
微動だにせず佇んだままのチェギョンの手を取り、自分の指に絡めて固定した。
 
足りなかった自分の体が、漸く元通りに戻った事に満足しつつ
彼女の視線の先を・・・・。 彼もまた、無心で見つめ続けた。
 
 
 
 
 
 
偏食傾向のあるジフとシンに小言を言いつつ、見覚えの無い食べ物の数々に戸惑うチェギョンに
日本の家庭料理なのだと言ってあれこれと説明をするスリョンが中心となって、彼等の昼食風景は
さながら ドラマなどでしか観たことのない 【団らん】 というもののようだった。
 
 
「ほら、シナ、これも食べなさい。チェギョナ、シナにあーん、してあげて。」
「あ、ジフ!今ピーマン避けたでしょ!はい、あーん!お口を開けて?・・・ん♪偉いわ♪」
「夕食は皆でカレーを作るから、お手伝いしてね?自分で作ると美味しいわよ~♪」
「ねぇねぇ、チェギョナ。後で相談に乗ってくれないかしら?ソッチマをもう少し膨らませたいの。」
「え?あの桜の写真はシナが撮ってくれたものだったの?あれ、私の宝物なのよ♪
シナってカメラマンの才能もあるのね!チェギョナも素晴らしいデザイナーさんだし
いつか二人展とかやりましょうよ♪早速Daddyにテレビ電話で二人の作品を見せておこっと♪
韓国はお爺様達にお願いして、アメリカはDaddyにお願いして・・ネットは崖のおじさんに・・
凄いわね~、楽しみよね~♪オファーとか殺到しちゃって、皇太子よりもカメラマンのほうが
シナのお仕事になっちゃったりするかも~??なんだか想像するだけでワクワクするわ。
私ってば、素敵なトンセンズが出来て幸せ者だわ♪あ、ジフも兄冥利に尽きる幸せ者よね?」
「みんな食べ終わったかしら?はい、じゃー、せーの、で 『ごちそうさま』 しましょ♪」
 
 
スリョンの言葉はどれもこれも、シン達の知らない言葉で溢れていた。
姉と呼んでくれてありがとうと言い、トンセンズになってくれてありがとうと言う。
チェギョンが作ったポケットの話も、その1つ1つに入れたシンの写真の話も
こんな風に嬉しくて、こんな風に感謝していると楽しそうに説明して、そしてまた、ありがとうと言う。
 
 
 
 
 
食後に、ジフに指導されながらお茶を淹れる姿は、明るいスリョンの屈託無さに慣れると
違和感がある位真剣で気品すら感じられる所作だったので、シン達も思わず真剣に手元を追う。
 
「「「 ふぅ~~~・・ 」」」
 
漸くすべての茶器に茶を満たし終えた時には、止まっていた呼吸を再開すべく深く息を吐く
その間合いもピッタリ揃ってしまった程で、それが可笑しいと言いながらジフが盛大に笑いこけた。
 
いつまでも笑いの発作が治まらないジフに、ジロリと不愉快そうな目線を向けるくせに
クツクツと笑いながらも片腕を広げたジフの、腕と胸の隙間にポトリと収まってしまう彼女を
幸せそうに見ながらその細腰を抱き寄せて、「少し寝な。」と囁く一連の動きはとても自然だ。
 
自分の胸に凭れる様に寄りかかり見上げられる漆黒の瞳に、優しく笑いかけながら頷いてやると
天女は間も無く意識を手放していく。そっと頬にかかる髪を耳にかけてやりながら
その優しい手付きとは裏腹に、ジフの表情は僅かばかり苦しそうに歪んでいる。
 
シンとチェギョンは、そんな彼の表情を見れば声を発する事も憚られ
何故か、何かが起こるのだろうと直感が囁くその時を、ジフと共に静かに待った。
 
 
 
 
 
10分も経たないうちに、スリョンがジフの腕の中でもがき始める。
額には幾つもの玉の汗を浮かべて、眉間には苦しげな皺が寄る。
 
 
「スリョナ?恐がらなくていい。俺がいる。俺がずっと、スリョンの傍にいるよ?」
「ほら?ちゃんと手も繋いでるだろ?スリョンの手には必ず俺の手が重なってるんだ。」
「1人で頑張るな。俺を呼べ。いつだって、どこにだって駆けつけてやる。それを忘れないで・・」
 
 
不意に強く握られた手の先にあるチェギョンを見れば、目の前のスリョンと同じように
苦しげに歪ませた顔があり、驚いて問いかけようとしたシンを制するように言葉を溢す。
 
 
「オンニ・・・・。オッパ、オンニを起こした方がいいわ。目覚めたら覚えていないと言うけれど
これは、あまりにも辛すぎるわ・・・・・。」
 
 
驚いたようにスリョンから意識を剥いでチェギョンを見た色素の薄い瞳は
何かに気付いたように優しく細められ、そして緩く首を振った。
 
そして、ジフが静かに口ずさみ始めたのは、スリョンの一番好きな グノーの、Ave Maria 。
 
まるで魔法のようだった。
 
ゆっくりと、嵐が去っていくようにスリョンの表情から険しさが消えていき・・・・・。
その代わりにフワリと温かみのある笑みを、咲き綻ぶように広げていったのだ。
 
 
 
 
 
 
「美しいな・・・・・・。」
 
 
 
 
 
嘗ては無かった、月明かりが一杯に注ぐガラス張りのボールルームには
音量を絞った三拍子の舞踏曲が優しく満ちる潮のように寄せて引く。
 
数百年の刻を越えて迷い込んだ天女と、彼女を得たいと、羽衣を隠してしまったヒトの男が
クルリ、ハラリ、と何度も弧を描きながら舞っていた。
 
水面に落ちる雫のように2人は在って、いくつも描かれる円は波紋の様だ。
 
 
 
数時間前に見た光景に対して呟いた言葉と、同じ言葉がシンの口から零れ落ちれば
その時と寸分違わぬ声音で、同じ言葉が返される。
 
「ようやく会えた片割れだもの。綺麗に決まってるわ。」
 
 
 
 
 
 
どこから見ても、ユガみもヒズみもない ≪ 完全な正円 ≫
 
互いの欠けたるを満たし、そしてまた完璧な調和を以って、物質として最も安定した姿になる。
すべての有機物が求めるように、ヒトもまたそう在らんと欲す。
 
しかし、どれだけのヒトが ≪完全に満たし安定出来る円の片割れ≫ に出会えるのだろう?
ホンの短いこの生の中で、その縁に辿り着けるのはおそらく一握りの稀有な奇跡だ。
 
 
 
それが、幸か不幸かは重要ではない。
 
出会ってしまえば、それはもう、運命なのだ。 逆らう事も、無視することも 出来はしない。
 
 
だから ・・・・・。
 
 
 
 
 
 
―――― 踊れ。 誰も見ていないかのように。 ―――――