「ねぇ、チェギョン。このシーンってキム・ソウォルの【チンダルレの花】のオマージュかしら?」
 
「え?オンニ、あの詩を知ってるの?」
 
「知ってるというか、ジフの小学校からの教科書を借りて、猛勉強中なのよ。
で、丁度国語の教科書があの詩になったところなの。
ほら!チンダルレが一杯に撒かれた橋を渡って恋人に会いに行くこのシーン!
あの詩は行く人を見送る詩だけれど、イメージ的には被るのよねぇ~。キレイだわ~。」
 
「そう言われてみれば・・・・・???」
 
「チンダルレ(つつじ)の花を一抱え、お行きになる道に撒きましょう。
一歩一歩、敷かれた花をそっと踏みしめて行ってください・・・・・。ハァ~・・・。
この後の展開を考えると、切なくて悲しくて、だけどとっても美しくて胸を打つの。」
 
「オンニはこのドラマ、何回観てるの?」
 
「ん?そうねぇ~??数えきれないくらいかしら?時代劇なのに短いのが良いのよね♪」
 
 
 
それは、後に死に別れてしまう、身分違いの初恋のひとに会いに行くシーンだった。
既にスリョンに付き合って何度も観ていたジフがパスし、シンも皇太子としての執務を
片付けると言って不参加になったので、彼女達にしては珍しいことに片割れ無しの
女2人だけでのドラマ鑑賞会をしているところだ。
 
チェ尚宮が話していたように、スリョンにとってこの国のドラマは単なる娯楽ではなく
言葉や所作、文化などを学ぶ教材でもあるので、その鑑賞の仕方は独創的だった。
 
今のように、チェギョンに様々な着眼点から質問をしながら、時には台詞を繰り返し呟きながら
ドラマに集中するスリョンを見ているほうが、一度見たことのあるドラマの何倍も面白かった。
 
だからスリョンがそうやってドラマに見入っている間も、チェギョンの視線はテレビ画面ではなく
スリョンのほうを向きがちだったから、おそらくは気付いたのだと思う。
 
 
(オンニは・・・、一体何をこんなに苦しんでいるのかしら?)
 
 
このドラマのテーマ曲であるクデボセヨ(貴方を想い・・)が流れる画面をジッと見つめる表情は
チェギョン達に見せる可愛らしく明るい笑顔でも、ジフに向ける甘い砂糖菓子のような笑顔でも
何かの拍子にフワリと面にのせる、神々しいまでの気高さに満ちた美しい微笑みでも無く
見る者の気持ちを果ての無い切なさで締め付けて、いつまでも離さない様な儚い笑みだった。
 
まるで何もかもを諦めて、全てを失って、過去だけを慈しんで見つめているような・・・・・・。
完全に諦めているのに、それでも終えることの出来ない想いに焦がれているような・・・・・。
 
おそらくは、決してジフに見せる事の無いだろう、スリョンの本当の笑みがコレなのだ。
 
チェギョンは本能でそれを理解すると、そっとスリョンの細く華奢な肩を抱きしめた。
痛みを溶かして分け合うように、2人の姉妹は暫くの間、時を止めてそうしていた。
 
 
 
 
 
 
本来面倒見の良い性質のスリョンにとって、シンとチェギョンという存在は活力を与えたようで
なかなか好転しなかったジフとの 【デート】 という名のリハビリは、俄かに順調になっていく。
 
ヒヤヒヤしながら待っているシンとチェギョンからすれば、連日のように軽い発作を起こし
ジフに抱きかかえられて帰宅してくるスリョンの姿に、好転の兆しなどは感じられないのだが
一昨日後部座席で発作を起こした彼女が、昨日はジフの運転する助手席に座れる様になり
そして今日は、それを発作を起こさずにクリアする事が出来る、という具合に目覚しい進展を
しているのだ。ただ、スリョンのたっての希望で1つクリアすると直ぐに次の段階に挑戦する為
帰宅時の2人は、酷く消耗した姿になってしまうのだ。
 
 
「ヌナ・・・、今日もまたヒョンとデートするのか?」
 
「あら、シナ?何故そんな顔をするの?」
 
「毎日毎日、ヒョンに抱きかかえられて帰ってくるヌナを見てるんだぞ?
僕とチェギョンの気持ちも、少しは判ってくれてもいいじゃないか!!」
 
「・・・・ふふ。シナは優しい子ね。心配してくれているのね。嬉しいわ。ありがとう。
でも・・・・。私、頑張りたいの。可愛いトンセンズとお花見したいのよ。だから・・・・・」
 
「花見なら、この邸の庭だって宮でだって出来る!大体僕もチェギョンも、それにヒョンだって
人混みの中には行けないってヌナだって判るだろ?だからヌナがそんなに無理する事無いんだ!」
 
「・・・シナ・・・・。・・・・少し、座って話しましょう。お茶の準備をするから、あっちで待っていて?」
 
 
 
ジフとスリョンを題材にして描き続けるうちに、創作意欲が湧いてしまったチェギョンは
スリョンの暮らす離れの一室にアトリエを構え、今も籠もりっきりだった。
 
母屋のリビングの広いソファセットの1人掛けに座って待つシンの許へ
スリョンがお茶の仕度を整えて戻ってくると、ソファには座らずにシンの傍の床に直に座って
かなり上達した点前で茶を淹れる。ユン邸に住まう者は皆、使用人に至るまで茶を淹れるのが
上手かったが、なかでもスリョンの淹れる茶は甘く優しい味で飲む者の心を汲むように癒す。
 
何処か刺々しく苛立っていたシンの心も、ひと口その琥珀の滴で潤せば、俄かに凪いでいった。
 
 
 
「ねぇ、シナ。私を心配してるだけじゃないんでしょう?何をそんなに恐がっているの?」
 
 
 
スリョンの言葉に目を見開いて固まったシンは、どうやら自分の変化に
気付いてない様子だったが、チェギョンに対して以外でこんなに心がざわつく事など
考えてみれば一度も無かった事に、気がついた。
 
何故・・・?
 
それはシン本人にとっても当然の疑問だった。何を此れほどまでに恐れているのか?
自分でも答えを見出せず、これもまた彼らしくないのだが、その戸惑いを素直に顔に表して
縋るような目でスリョンをジッと見つめた。
 
シンの視線をニッコリと微笑む笑顔で受け止めながら、スリョンは静かに口を開く。
 
 
 
「大丈夫よ。私はどこにも消えないわ。そしてジフも壊れたりしない。安心なさい。」
 
 
 
ヒュッと息を吸い込む音がして、シンの顔は少しだけ青褪めた。
スリョンの言葉で気付いたのだ。自分がどれほどこの2人を必要としているのか。
そして・・・。どれだけこの2人に、心を開くのではなく、丸ごと預けてしまっているのか。
 
自分は甘えていたのだ。この人に。
 
シンにとってチェギョンは自分の延長上にあって、その心は互いに溶け合う1つのものだ。
だからそれは預けたり預かったりする事は出来ず、共有するものだった。
 
 
今まで彼の周囲に存在したあらゆる人間関係は、チェギョンというたった1つの存在に帰結し
極論を言えば、チェギョンだけが在ればそれで 【必要十分】 であり、チェギョン1人と
その他の全てはあらゆる面で 【同値】 であると言いきれた。
 
けれども、今自分の中にあるスリョンやジフの存在感は、シンの中にあった常識に当てはまらない。
そんなことは生まれて初めての事だったから、直ぐには気付けなかった。
 
 
「僕は・・・・、今まで誰にも甘えた事が無くて・・。チェギョンは僕の一部だから・・・・・。
自分に自分が甘えるのは可笑しいし・・・・・。陛下達は尊敬し敬う対象で・・・・・。
チェギョンだけいてくれれば、それで良かったし・・・・。でも・・・・ヌナが・・・、ヌナは・・・・・」
 
 
自分でも、何を言っているのか解らなかった。ただ、溢れるままに言葉が声になる。
そこに意味なんて、多分無かった。でもそうすることで、結ばれない思考が少しずつ
何かのカタチになっていくような気がして、シンは言葉を止めることはできなかった。
 
 
ふわっ
 
 
慣れ親しんだチェギョンの温もりとは違う、何処までも包み込まれる安堵を喚起するそれは
あの時は堪える事の出来た涙を、今日は我慢する事を許してはくれないようだった。
 
ソファに腰掛けるシンの膝先辺りの床にペタリと座り込んだまま、ソファに肩肘をのせながら
ジッとシンの様子を見ていたスリョンが、徐に立ち上がると、シンの座る1人掛けのソファの
肘掛に腰掛けて、自分よりも大きなシンの身体を斜め横から、彼女の小さな身体全身を使って
包み込んだのだ。
 
ポン ・・・ ポン ・・・ ポン ・・・ ポン ・・・
 
震えている広い背を擦りながらリズムをつけて、宥めるようにポンポンとたたく温かな手は
このまま、泣きながら眠ってしまいたいと思う程に、彼を安心させて委ねさせる何かを持っていて
それはシンの知らない、そしてチェギョンが与える事の出来ない【何か】だった。
 
チェギョンの温もりに安堵するのとは、根本的に違っていた。
 
チェギョンのそれは、抱きしめられる事よりも、寧ろ彼が抱きしめる事で安堵できる温もりだった。
けれどもスリョンのそれは、ただこうして抱きしめられて包まれる事で心が解き放たれる安堵だ。
 
チェギョンという存在からしか、感情を学びとって来なかったシンには
それが【何か】理解出来なかったが、彼の本能がそれを求め、それに枯渇していた事を教える。
ダラリと垂れたままだった腕を、おそるおそる小さな背に回して、しがみつく様に縋って泣いた。
 
何の涙かも解らなかった。
 
ただ、彼の中にずっと在り続けた謂(いわ)れの無い不全感が少しずつ消失して
皇太子でない【イ・シン】という人間の感情が、混乱の中にも歓喜するのだ。
 
 
 
 
それは、稚児が母に甘えるようであり、聖母に縋るタダビトのようでもある、慈愛の描写だった。