「はい。今日のぶん・・・・・・」
 
 
そう言っていつものように小さな玉を渡したジフはそのまま昏倒した。
 
 
 
 
 
 
 
それはあの雪の夜から数夜後のことで、馬に乗る事を好むジフが輿で来たというのだから
余程具合が悪かったのだろうと、尋常でない熱さの額に濡れた布を当てながらスリョンは思う。
 
後の御世の、政(まつりごと)の要との呼び声の高い貴い身を
何故自分のような者の為に、これ程鞭打って頑張るのだろうか?
 
チェギョンが無事に子を産み落とすまでは・・・と思うのは自分の身勝手な我が侭だ。
ジフはそれを知っていながら、自分に付き合ってくれている。
 
 
もう・・・・・・十分なのかもしれない・・・・・・・。
 
 
五十夜(いかよ)も越えぬというのに、倭国の者は約を違えて恥ずものもないらしく
再三使者を寄こして、渡国の決意を急いてくる。今のところは皇帝の言を借りてそれを退け
また、シンが寄こした近衛の兵に守られ、無体な事はされていないが
この勢いではそれもどれほど役をするか解らない気がする。
 
我が国にも善人と悪人の両方がいるように、倭国の民だからとひとくくりに括って
蛮民と決め付けようとは思わぬが、百夜をただ通うという途方も無い約の為に
これ程心身を削るジフと引き比べれば、あの男はやはり蛮族の民なのだと思わずにはいられない。
 
しかもその男に側女(そばめ)のような扱いを受けるのだろう我が身を思えば
一夜でもひとときでも早く、自分の心の臓が止まることを祈ってやまぬ。
もしも今この瞬間、ジフの姿をこの目に焼き付けたまま身罷れるというのならどれ程幸せだろう?
 
 
明日も明後日も、そして幾年も・・・・・
 
 
ずっと共に在れると信じて疑いもしなかった日々はもはや遠く幼い記憶の中だけに在り
今はこれ程に強く想いながらも、其れゆえこれ以上共に過ごす時が増える事が恐ろしい。
 
何よりも、あの晩に逃れようも無いほど明確に気付いてしまったジフへの恋心を想えば
これ以上の時間はただ、互いの苦しみを増やすだけの様に思われた。
 
 
 
 
 
 
 
「ジフ・・・あなたのためにも・・・・・」
 
 
 
 
 
 
 
「・・・・・俺の、為?スリョン・・・・馬鹿なことを考えるな・・・・。俺の為と、言うのなら・・・・
与えられた時を、全うさせ・・・ろ・・・よ。お前は、・・・俺との約束を、違える積り・・・・なんだろう?」
 
「何故・・・そう思うの?」
 
「そんな酷い・・・・顔をして、・・・・考える事なん・・・か、決ま・・・・ってる。
・・・・・ダメだ。絶対に・・・・・認めな、い・・・・からな?俺の・・時を、勝・・手に、縮めるな・・・よ・・」
 
「馬鹿ジフ。そんなのではないわよ。何でも飄々とこなすユン・ジフが
こんなに不器用だったなんて知らなかったと呆れていたのよ。それだけよ。」
 
「・・・・・ふん?・・・・冷たいな?」
 
「なんですって?私が冷たいなんて、どのお口が言うの?ったく・・・口だけは元気なのね?
こんな時くらい可愛らしく寝ていればいいのに、全くあなたって人・・・・・・は・・・・///」
 
 
 
スリョンの言葉など耳に入らないかのように、その小さな手を持って自分の頬に寄せると
ホウ・・・と心底安堵したかのように熱を帯びた息を吐き、横たわったままの顔をそれに寄せ
男にしては長い睫を伏せたまま、ぽつり、と言った。
 
 
 
「スリョンの、手・・・・。・・・・・冷たくて・・・・・気持ち・・・・良、い・・・・・。
でも・・・・、お前、らし・・・・くない。・・・心が・・・・冷え・・る・・・・・の・・・・?
おいで・・・・・?俺の熱・・・で、温め・・・て、やるか・・・・ら・・・・・ほら・・・?」
 
 
 
 
 
 
 
何故この男はこれ程までに優しいのか?
 
 
 
 
 
 
 
高熱に浮かされて、おそらくその意識も朦朧としているだろうに
想うはスリョンのことばかりなのだと、今も心配そうに眉を寄せるその表情が言うのだ。
 
ほら、はやく・・と急かすように、力など入らないくせに掛け衣を剥がそうとするから
スリョンは慌ててその身を、温石のように熱くなっているジフの横に滑り入れた。
 
未婚の男女が一つ褥に同衾など、有ってはならぬことと知りつつも
今という時が、いつか自分の生きる縁(よすが)になるかも知れぬと思えば、身体は自然と動いた。
 
 
 
 
 
 
 
熱い熱波のような霧に覆われ、陽炎のように揺らめく意識の中で、ジフもまた思う。
 
 
 
 
 
 
 
この愛しい者のカタチも香りも、きっとこの後幾夜も自分を苛み、そして甘く痺れさせるのだろう。
胸の辺りで息づく呼吸の愛らしさも、その回数も、決して忘れはしないだろう。
 
この身がたとえ朽ちても尚、この想いは強く宿り、空中を彷徨うに違いないと思われるほど
強く深く、身にも心にも刻まれて、スリョンを想うのだ。永久(とわ)と言われる刻の果てまでも。
 
 
 
 
 
 
 
「スリョン・・・・・何処へも行くな・・・・・・。」
「俺の・・・・俺の側に・・・・・・。」
 
 
 
「ア イ シ テ イ ル ・・・・・。」
 
 
 
 
 
 
 
うわ言のように紡がれる言葉に、ヒュッと息を呑んだスリョンは
嗚咽を隠そうともせず、その男の胸に縋って泣いた。
そして泣きながら、血を吐くように告白する。
 
まるで、己の罪を白日の元に晒そうとしているかの如く、苦しげに・・・・・。
 
 
 
 
 
 
 
「ジフ・・・・。ジフ・・・・・。私も、私も愛しているわ。
あなただけを、アイシテル。」
「きっとあなたを離れては、生きることも出来ないくらいよ。」
「側に・・・・あなたの側にいたい・・・・・・。」
「百夜も、千夜も、永(とこしえ)に・・・・・ずっと・・・・添うていたいわ・・・・・。」
 
 
 
 
 
 
 
その言葉は、闇に溶け、風に乗り、切なる願いとなって天翔ける。
 
 
 
 
 
 
 
それはきっと、南柯之夢。
 
そんなひとときの、儚い夢を、これ程までに希求するひとの心の清けきさまを
天帝も憐れに思い召したりされぬのだろうか?
 
 
 
 
 
 
 
どれ程愛し合っても結ばれぬ定めと諦念した女の悲しみと
どれ程の定めであろうとも覆さんと、己が全てをこの百夜に賭す男の信念と
 
どちらを聞き届けたもうのか?
 
 
 
 
 
 
 
数夜前の雪は、一晩中降り注ぐ温(ぬく)まった雨によって溶かされてゆく。
 
 
 
 
 
 
 
 
積もる想いを地に流せとや?
 
凍る心を溶かせとや?