父である皇帝陛下の執務室に呼ばれ、その話を聞いた皇太子はひどく動揺していたが
常日頃の皇帝学の賜物か、それを表情に出すことも無く・・・只1つ、そっと嘆息を漏らす。
 
 
 
「・・・・・・知っての通り、私の体調も思わしくない。
太子には一刻も早く世継を儲けて貰い、その地盤を固めて欲しい。」
 
 
 
地盤を固める・・・。
 
まだ高校生の、青年と呼ぶには些か尚早な息子に、子を儲けろと言わねばならない程に
皇太子という名の冷たい椅子は、脆弱な地位なのだろうか?
 
 
 
権力は世襲され、その地盤もまた世襲されるこの魍魎跋扈(もうりょうばっこ)する場所で
先帝の第二皇子として生まれ、ある日突然第一皇子である前皇太子の薨御(こうぎょ)により
現在の地位に就いたこの皇帝には、その地盤というものが無く、随分苦しんだと聞く。
 
 
 
彼の婚姻は大君時代に、王族会推薦の妃を娶ったものだったが
故に妃である現皇后の家柄は、然程強い後ろ盾とは成り得なかった。
 
だからこそ息子である皇太子には、是が非でも有力な王族から妃を娶らせて
姻戚という強い根を生やさせてやりたいと思っていたのだが、此度の婚姻に関しては
どうした事か、王族会がもろ手を挙げて全会一致で承認してしまったのだと・・・。
 
先ほど皇帝は口惜しそうに、息子の前で語ったのだ。
 
 
 
(どうした事か・・・? そんなものは、決まりきっているだろうに・・・・・。)
 
 
 
有力な王族が、好き好んで娘を皇太子妃に差し出すなど、皆無であろう事は既に明白だ。
陛下は解っておられて、その上でこのような繰り言を言っておられるのか?
それとも・・・・・・?
 
 
 
(・・・後者であれば、この方のこれまでの苦労というものは、
後ろ盾となる力の無さ以上に、おそらくその御性質にあるに違いない・・・・・。)
 
 
 
あの腹黒い王族達を上手く御しつつ足並みを揃える事の難しさは
彼とてこの場所に住まう者として、知らぬ訳ではない。
寧ろ、誰よりも知っていると言っても良いくらいに知り尽くしている。
 
詮無い思索にキリをつけると、その父によく似た気の弱そうな笑みを浮かべて
やわやわと優しげに声を発した。
 
 
 
「畏まりました。このお話、恙無くお進めくださいますように・・・・・・。」
 
「それで、本当に良いのか?先帝の親友の孫とは言え、極普通の庶民の娘。
そなたの力になれるとは、正直言ってとても思えんのだが・・・・?」
 
「これは異な事を仰せでございますね。元より陛下おん自らが仰ったのではありませんか?
一刻も早く世継を儲けろと。・・・それは、私1人ではどうとも出来ぬ問題でございましょう。
加えて此度の婚姻は先帝陛下の勅命とも言えるご遺言。そもそも違える事など出来ますまい。
王族会でも満場一致の賛成とあれば、私に選択肢があるとも思えませんが?」
 
 
 
 
余(あまり)に整然と、まるで他人事のように、己の婚姻について語る息子にやや驚きつつも
何処にも齟齬(そご)の見られない事実を列挙されてしまうと、皇帝はグゥ・・と黙り込む。
 
苦虫を噛み潰したような・・・とは、こういう表情を言うのだろうな・・・、などと思いながら
「それでは、執務の続きが残っておりますので・・・」と、皇帝の御前を辞した皇太子は
東宮殿に戻る渡り廊下で暫し佇むと、闇を見つめてニヤリと嗤った。
 
 
 
 
 
先ほどの柔らかな微笑みは、彼の処世術とも言える仮の姿であり
今、その涼やかな瞳を怜悧に煌かせて嗤う彼こそが、イ・シンという男の本来の姿だった。
 
 
 
 
 
王族達にとって、皇族の、ましてや皇太子妃に娘を挙げる事は
普通であれば誉れであると同時に、一定の権力をその手に握る事を約束される慶事である。
 
しかしながら、現状はそう安易なものでは無い。
 
亡くなった前皇太子の第一皇子である義誠君は、一皇族でありながらも父の持っていた地盤と
皇太子妃となれる程の政治力に長けた実家を持つ母、恵政宮の地盤の両方を掌握している。
それは現皇太子よりも強大な力を持っている、・・・と言っても過言ではない程のものだ。
 
また、野心高い母に似たのか、義誠君イ・ユルは、従兄弟であり現皇太子でもあるシンに対して
常に慇懃無礼、且つ、居丈高な姿勢を崩そうとせず、何事に関しても対抗心を燃やして
己の力とその血統の優秀さを誇示したがり、本当の権力は誰にあるのかを知らしめようとする。
 
 
 
【 無能な皇太子よりも、義誠君様のほうが余程 [ 皇帝の座 ] に相応しい。 】
 
 
 
これが昨今の王族達の、偽らざる本音だろう。
 
 
何しろ、そんなユルに対してシンは、文武両面に於いても、またその資質に於いても
衆目を集めるような才能が、何1つ無いのだから・・・・・。
 
軟弱で、これといって秀でた才も無く [ 影の薄い皇太子 ] であるシンのことを
揶揄する者の中には、「どこまでも父帝にそっくりであらせられる。」と嗤う者も少なくは無い。
それだけ現在の皇帝と皇太子は、彼等にとって脅威でも、畏怖の対象でも無いのだ。
 
権力に固執し続けてきた血統ゆえか、人一倍野心のある彼等の目から見れば、
【 将来性の無い皇太子よりも、優秀な義誠君を次の皇帝に! 】
と望む声が高まるのは無理も無く、至極自然な流れともいえた。
 
そんな、何時その地位を追われるかも判らない、ハリボテに等しい存在の皇太子に
大切な [ 権力の駒に成り得る娘 ] を嫁がせようなどと思う酔狂な者は
小賢しく利に敏い王族には、1人とて存在しないのである。
 
 
 
(この日が来るのを、どれだけ待ちわびただろうか・・・・?)
 
 
 
腹心の部下の、ホンの数名しか知らない、両親さえも知らない本当の彼は
ユルなど及びもつかない程優秀な頭脳の持ち主であり、武道の才もずば抜けている。
 
そんな自分を此れまでずっと、ひた隠しに隠して [ 愚鈍な皇太子 ] を演じ続けてきたのは
この日を迎える為のシンの戦略でもあったのだ。
 
 
 
 
 
幼い頃のそれは、生きる知恵だった。
 
 
 
 
 
此れまでに何度も彼の身は、命の危険に曝された。
全てはユルを本来の地位に戻す為の、その為に邪魔なシンという存在を廃する為の謀略。
 
だからシンは努力を惜しまなかった。 
[ 無能である ] と自分にレッテルを貼らせる努力を・・・。
 
イ・シン皇太子は、イ・ユル義誠君殿下には遠く及ばない [ 凡庸な少年 ] であると
事ある毎に見せつけて、その印象が確たるものへと変わるように、少しずつ植え付けていった。
 
そうすることで、彼はそれまでよりもずっと命の危険に瀕することの無い生活を手に入れ
少なくとも東宮殿内にいる時間は、少しばかり寛ぐことが出来るようになった。
 
 
 
 
けれども何時の頃からか、彼の演じる意味合いは変化する。
 
 
 
 
元々望んで得た地位などではなかったし、此れほどの努力を以って維持したい生活でも無い。
ならば彼等の望みを叶え、そのついでに自分の望みも叶えば一石二鳥ではないか?
 
 
窮屈な枷としか思えない皇太子という存在から、解き放たれたい・・・・。
 
 
ある日を境に、終始命の危険に曝され続ける日々を余儀なくされた
幼い少年の生まれて初めての望みが、ソレ だった。
 
 
 
 
 
父帝は今回初めて知ったようだったが、許婚の存在をシンはずっと前から知っていた。
祖父がまだ存命だった頃、上皇となった祖父と、今も健在な祖母である皇太后から
何度も繰り返し聞かされていたのだ。・・・・・その娘が民間の娘である事も。
 
シンの願いを叶えるためにはうってつけの 
[ 何の力も持たない東宮妃 ] と為ってくれるだろう庶出の娘が
自分の許婚だと知ったシンは、飛び上がらんばかりに喜んだ。
 
 
 
(あの時、これは天の助けだと思ったんだ・・・・・。)
 
 
 
皇太子の婚姻には王族会の承認が必要であり、未だ民間からの輿入れは前例が無い。
故・先帝陛下の勅命となるご遺言を以って、ようやく詮議の席にかけられる程の異例の事態だ。
これを逃せば、どんなに微弱であっても幾許かの力を持つ王族の娘が妃になるのは明白。
 
 
 
(きっと、この手に自由を掴み取ってみせる・・・・!!!)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
同夜。同時刻。
 
のちに連れ添うこととなる年若き男女は、偶然にも同じ月を見上げる ―――― 。