ゆっくりと長い足を動かして歩くさまが、散歩を楽しむような風情の長身の青年。
その手には花のブーケとも見まごう様に美しく配置された色とりどりの菓子が入った籠を持っている。

 
 
不意に立ち止まった青年はその籠を見下ろして、微妙な微苦笑を浮かべる・・・・。
その笑みには何処か皮肉気な色が混ざり、そしてホンの少し、戸惑いが溶かし込まれている。
 
 
 
 
 
 
 
「シン!結婚するらしいなっ!」
 
「・・・ああ、ユル。どうやらそうらしい。」
 
「随分そっけないんだな?」
 
 
 
自分の、況(ま)してや婚姻という人生の一大事だっていうのに?と、
含みでもあるかのように言って、ニヤリとからかう様な笑みを浮かべた従兄弟に
いつもの気弱そうな笑みを返しながら肩をすくめて見せることで
この婚姻が仕方の無い事で、受け入れるより方法がないのだと、態度で示して見せたシンに
今度は冷笑を浮かべたユルが得意気に話し出す。
 
 
 
「ま、お前は女心なんて解らないだろうが、少しは優しくしてやれよ。ほら、これ。
お前のお妃様にって、用意させた。これでも持っていって、気遣ってるフリでもしておけって!」
 
「・・・? これは?」
 
「キャンディ。女はこういうのが好きなんだ。
特に、[王子様] からのプレゼントなら、威力絶大さ。チョロイもんだよ。」
 
 
 
ポン、と放るようにシンの執務机に無造作に置かれた紙袋の中を覗くと
カラフルな包み紙に包まれた小さなものが沢山入っていて
まるでオモチャ箱を覗き込んだような、賑やかで少し雑然とした印象を受ける。
 
不思議そうに見上げたシンに向かって
如何にも自分はその手の知識も豊富なのだ、と言いたげな、自慢げな表情でそう言うと
「ま、お前には判らないだろうけど?」と、シンを馬鹿にするように見下ろして、フンと笑う。
 
でも直ぐに何かを思い出したような素振りで自分の腕時計に目をやって
「ああ、もうこんな時間か。」と呟いた後、「じゃ、頑張れよ!」と機嫌良さそうに
ヒラヒラと手を振りながら執務室を出て行った。
 
その芝居がかった背に向かって
凍るような冷笑を浮かべた男の、低い声が呟かれていたとも知らず・・・。
 
 
 
「多忙である事を自慢したかっただけか?・・・クククッ。 お目出度い奴・・・ククッ。」
 
 
 
椅子の背凭れが軋むほど寄りかかって背を反らし、組んだ手のひとさし指を
クルクルと器用に動かしながら、冷めた目は執務机の上の紙袋に向けられる。
 
それはシンが何かを考える時の癖であり
現に彼の頭の中では幾つかの記憶が、順に呼び起こされていた。
 
 
 
(あのクソ生意気な従兄弟殿の今日の予定は、宗親会への出席、か・・・。)
 
 
 
そうやってユルが必死になってくれれば、それだけ自分の願いも叶い易くなる。
シンにしてみれば、ユルはとても良く動いてくれる優秀な手駒のようなものだった。
 
皇太子である自分の妃が有力王族から輩出されないように、様々に策を弄(ろう)する傍らで
もしも白羽の矢が当たった時にも、王族の娘達自身に断固として入宮を拒絶させる為に
一歩間違えれば醜聞騒ぎとなるような手を使って、彼女達の気を惹いていた事も知っていた。
 
 
 
(・・・今度は、皇太子妃にも手を出すつもりか?)
 
 
 
フッと目を伏せてクスリと嗤うと、徐に立ち上がったシンは
ドアの外に控えているはずの、腹心の侍従へ声をかける。
 
 
 
「コン内官。例のものの準備は整っているか?」
 
「はい。殿下。仰せの通りにご用意しております。」
 
「解った。では行って来る。それと・・・・・・。」
 
 
 
ソファに脱ぎ捨てていたジャケットに袖を通し、傍らの鏡をチラリと見て身なりを確認しながら
老内官の答えに満足気に頷き歩き出してから、一瞬立ち止まって踵を返し、執務机まで戻ると
机上の [異物] を無造作に掴み上げ、それを持って今度こそ執務室のドアを開ける。
 
そこに、長年彼と苦楽を共にして来た部下を見つけると、その手から籠のようなものを受け取り
返す手で先ほどユルが自室に持ち込んだ [異物] を、少し乱暴に手渡す。
そして感情の一切籠もらない声で 「何時ものように処理してくれ。」 と付け加えた。
 
 
 
 
 
 
 
手に持った菓子の詰まった籠は、一昨日入宮した許婚殿の為に、シンが自ら用意させた物。
けれどもその発想があの従兄弟と同じだった事に不思議な血縁の濃さを感じてしまう。
 
そして、どれ程それを否定しようともあの男と自分には [裏と表]、[陰と陽] のような
因縁めいた絆が在ることも、否めない事実なのだ・・・と、今更ながらに思い知らされる。
 
 
 
(どちらが陰で、どちらが陽なのか・・・・? そこが問題なんだろうがな・・・。)
 
 
 
たかが菓子如きの事で随分と意味深だな・・と自嘲含みに嗤ってみても、気は晴れなかった。
これから会おうとしている娘に対面したところで、それが晴れるとも思えない。
 
いっそこのまま、これを捨てて馬にでも乗りに行こうか?と思いつくが
ひと前ではそれさえも自由には振舞えない身だったと、密かに嘆息して諦めをつけた。
 
 
 
彼が得意とする馬術を存分に楽しめるのは、深夜の宮の裏の森の中ぐらい。
それ以外では 「馬術は苦手」 なフリをしなければならなかったのだから・・・・。
 
 
 
幼い頃から馬術を好んでいたシンは、ユルに撃毬(キョック)で勝ってしまった事がある。
その後随分と嫌な思いをして、あれ以来、慎重にワザとらしくなく負けるように心掛けてきた。
 
丁度その辺りからだったろうか?
 
自分がユルの影になるように何事も一歩も二歩も退いて
本当の自分を誰の目にも触れぬよう、隠すようになったのは・・・。
 
 
 
今ではその行為の理由も変化して、あの頃ほど苦痛ではなくなったけれど
それでもこうして時折訪れる息苦しさに遣りきれなくなる。
 
自分を隠し続ける事の窮屈さだけでも手を焼く事があるというのに
不快な嘲笑と不躾な蔑みに度々曝されることに耐えるのは、随分と労力が要るのだ。
 
大した能力も無いのに・・・。そうは思っても、自分の本領を発揮することは許されず
八方塞がりの日々の中で、唯一手に入れた希望の光が [廃位] の二文字 ――― 。
 
 
 
そんな自分に嫁いでくる娘は、母皇后の話によれば
親の借金を宮が肩代わりする事を条件に、まるで売り買いされる [モノ] のようにして
ここに来て、この宮という檻に閉じ込められる運命を受容したらしい。
 
 
 
「とても可愛らしくて、素敵な笑顔のお嬢さんだったわ。
最初は庶出の妃だなんて・・・と、少し気に入らなかったのだけど・・・。」
 
 
 
娘の来歴を思い出すうちに飛び出した [運命] という言葉に導かれるように
あの時の母の言葉も、記憶を流れるままに思い出される・・・。
 
なかなか人を褒める事の無いその人が、初めて会った自分の嫁になろうという娘に向けた
ひどく優しい言葉に一瞬驚いて、少し見開かれた自分の目に、次に映し出されたのは
苦々しい表情になった母の顔・・・・。でもそれは直ぐに何処かへ散るように消えて・・・。
 
 
 
「太子、優しくしておやりなさい。ここは、愛が無ければ住むには辛過ぎる場所・・・。
貴女とチェギョン嬢が結ばれるのは、最早避けられない運命のようなものです。
あなた方2人には、きっと何か、深い縁のようなものがあるのでしょう。」
 
 
 
そう言って、まるで少女のように微笑んだ。
それは息子である自分に、おそらく母が初めて見せた、彼女自身の持つ表情(かお)。
 
一層驚きの表情で自分を見つめる息子に向かって、少し照れたように肩をすくめると
「私に、こんな事を言われるのは、意外でしたか?」と苦笑した皇后は
頷くわけにもいかずに戸惑うような顔で自分を見る息子に、優しく微笑みかけながら
「これよりは皇后ではなく、母として・・・シン、あなたに聞いてもらいたいの。」と言った。
 
 
 
「私と陛下の間にも、最初は愛などありませんでした。それはあなたもご存知ね?
それでも、そんな婚姻でも、育つ愛があることを私はこの身で知りました。
世間で言うような、激しく燃えあがるような情熱的なものでは無いかもしれません。
そんな愛に憧れたこともありましたが、あなたやヘミョンを授かり、皇后としてあの人を支え
・・・そうね・・・、雪が解けて少しずつ春になっていくように、愛と呼べる感情が生まれて
そして、胸一杯に根を生やしました。そういう愛も、ある。・・・今ではそう、思っています。
あなたにとって見れば、きっと私は頼り甲斐の無い母で、・・いえ、母でもないのかもしれません。
ずっと皇后として、あなたを皇太子としてしか見ないように、それがあなたの為と思って
冷たく接していたのですから・・・。」
 
「皇后様?何故突然そのような事を仰るのですか?」
 
「・・・フフ。やっぱり私は、母ではないのね・・・。そうね・・・。急には無理よね・・・。
あの娘が、チェギョン嬢が・・・、言ったのです。両親に売られるようにしてここに来たのに・・・。
 
“これまでの19年間、両親に愛されて、私は幸せでした。
これからは皇太子殿下様や、新しい家族になる皆様と、幸せになりたいです。”
 
・・・シン。信じられますか?私は・・・その言葉に耳を疑いました。
でも、その言葉に偽りは無いことは直ぐに解りました。とても・・・、とっても澄んだ目をしていたの。
まるで、私の心までも清く澄ませてしまうような・・・。
恥ずかしかったわ。一瞬でもその言葉を疑った自分が・・・。
そしてきっと、あなたにそう言ってもらえる母ではなかっただろう、これまでの自分の全てが・・・。」
 
 
 
「ごめんなさいね?」そう言って、母は悲しそうに
でも何処かスッキリとしたような笑顔を見せた。
 
 
 
 
 
 
だから、興味が湧いた。
自分の妻になるというその娘は、一体どんな人物なのだろうか?と・・・。
 
 
 
(それから殿に戻って直ぐに、これを用意させたのだったな・・・。)
 
 
 
フッと、彼本来の屈託の無い笑みを一瞬浮かべて、再び歩き始めたその歩みには
もう、一ミリの迷いも無い。どころか、その歩幅は知らず大きく広がっていく。
 
 
 
 
会いたくて、仕方なかった。