晴れて夫婦となった皇太子とその妃が、殿舎の簾内(みすうち)から姿を現した。
 
 
先に欄へと歩を進めた皇太子は、気遣うように後方を見遣り
皇太子妃付きの女官2名のうちの1人を呼んで、何事かを囁く。
 
 
一瞬目を見開いた女官は、直ぐに頭を垂れつつ
皇太子の持つ笏を受け取ると静々と後ずさる。
 
 
それよりも、一拍置いてその姿を現したのは、
先帝陛下の定めた許婚でもある民間出身の皇太子妃であり
これまで新聞などで公式に発表された写真以外で
その姿を衆目に曝すのはこれが初めてとなる、シン・チェギョン妃。
 
故に彼女に向けられる臣下の視線は、
好奇心も露わに、値踏みをするような下卑たものも多い。
 
 
 
 
 
しかし・・・
 
 
 
 
 
気品溢れる豪奢な皇太子妃の婚礼衣装を纏った妃が
サナリ・・と衣擦れの音もなよやかに歩み出でると
夭夭(ようよう)たる桃花のような、
若さに満ち溢れて、匂うばかりの楚々とした美しさに
彼らはその視線のみならず、心までも奪われたかのように呆然とする。
 
誰もがゴクリと唾を飲み込んで思うことは同じだった。
 
 
 
(これが・・・本当に庶出の娘なのだろうか?)
 
 
 
おそらくは、どれ程由緒正しい高貴の姫君でも
これほどでは無かろうと思われるほどの優雅さと気品があり
淑やかな中にも華やぎのある様は、どこか貴族的で圧倒されるものがある。
 
この段階で、声を失うほどに驚いていると言うのに
彼等の驚きは、次の瞬間には茫然自失の態(てい)を為す。
 
 
 
 
 
つぅ・・と、妃に歩み寄った皇太子が、スラリと高い長身の身を幾分折り曲げて
自らの玉顔を、黒目がちな大きな瞳に映しこんだ瞬間・・・
 
その美しさは えもいわれぬ暖かな温もりに溢れてゆき
一面に限りなく広がる大河のように、その場に居並ぶ全ての者を包み込む。
 
 
 
 
 
「・・・皇天后土(天を治める神と、地を支配する神)。
先帝は、其れを願われた・・・? これは、その為の契り・・・?」
 
 
 
 
 
誰かが嘆息交じりに呟いた言葉は深く、その声は囁くほどの大きさだというのに
それは百官居並ぶこの場に於いて、雷鳴の如くに轟く。
 
“皇、天を治むれば、后、地を治む。”
 
其れは確かに皇帝と皇后の理想的な姿ではある。
あの賢帝と名高い聖祖帝が、その理想をこの2人に託したと・・・?
 
 
 
 
 
 
ザワリ・・・
 
 
 
 
 
 
自分の目に映る、全てがリアルに思えなくなった者達によって、惑乱のさざめきが起こる。
皆々の目の前には、絵物語のような光景が、光を放ちながら繰り広げられているのだ。
 
 
 
 
笏を女官に渡した皇太子は
数歩先に階を降りると振り向いて、皇太子妃に向かって手を伸ばす。
 
少し驚いた後にニッコリと微笑んだ皇太子妃は、その手を取って
一段、また一段とゆっくりと下っていく。
 
およそ5段程をそうして下り、皇太子妃が後一歩で地に足をつけようか、という時。
 
鬘と衣装を合わせれば、かなりの重さになるだろう新妻の身体を
皇太子が軽々と抱き上げてしまったのだ。
 
 
 
 
 
本来であればここで、文武百官の四拝を以って祝福されて
皇太子両殿下は其々の輿に乗り、正宮である景福宮に帰宮するのであるが・・・
 
 
 
 
 
周囲が戸惑いを隠せないでいると、前列にいた王族の1人が静かに拝礼の姿勢をとった。
それは、皇太子の外祖父でもある、ミン皇后の父、ユ・ジョンミン長老だった。
清廉なことで知られる彼は、それ故 政治力には乏しい。
けれども先帝の絶大な信頼を受けて長老職となり、娘を第二皇子の妻にと望まれた人格者だ。
 
そして、ほぼ時を同じくして拝礼の為に跪いたのは、最長老その人だった。
鷹の目を持つホランイ(虎)は、老いてもその威厳と力、鋭い爪を持っている。
彼は頬の皺を伸ばして老獪にニヤリと笑むと、両手を付いて頭を深く垂れる。
 
現皇太后パクの兄でもある彼がそうしたことで、夢から覚めたかのように
ハッと理性を取り戻した王族達がそれに倣い、次々と拝礼の姿勢を整えた。
 
 
 
「皇太子殿下、皇太子妃殿下。
恙無く嘉礼を終えられましたこと、真におめでとうございます。」
 
「「「「 おめでとうございます。 」」」」
 
「臣下一同、これより “皇天后土”に誓ってお二人をお支えする覚悟にございます。」
 
!!!!!!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(・・・虎が、吼えたか?)
 
 
 
今日の儀式に於いて、当然最長老の祝いの言葉も、形式的なものであるはず。
にも拘らず、王族達が此れほど慌てるという事は、最後の言葉は最長老の一存なのだろう。
 
その言葉の持つ意味を考えると、苦笑いを禁じ得ないシンだったが
腕の中の、妻となった少女が心配そうに自分を見ていることに気付いて
安心させるように、優しく微笑んでみせた。
 
その表情は [僕] である皇太子そのものなのだが、彼自身の自覚も無いままに
そこに彼の本質である [俺] であるイ・シンが滲み出ているものだから
美しい妃を抱いて立つシンの、優雅に微笑む姿は、途轍もなく偉大な王と見紛う程。
 
 
 
「忠、感謝する。」
 
 
 
たった一言。 それで十分だった。
一瞬にして ざわめきを鎮め、厳かな雰囲気へと改めた皇太子の声は
決して張り上げた訳でもないのに、彼等の耳を打ち、胸に響く。
 
 
 
 
 
 
 
 
そして、直ぐに彼等の存在など頓着しないかのように、風格ある足取りで歩き出すと
先ずは皇太子妃が乗るはずの輿へと近付き、まるで宝物を扱うかの様な慎重さで
精密な透かし彫りが随所に施されている紫檀の椅子の上に、そっと妃の身体を乗せる。
 
鬘を直して、衣装を調えてやるなど、女官がするようなことを、暫し楽しそうにしてから
最後にそのふっくらとした頬を優しく撫でて、ニッコリと笑いかけた。
 
それから漸く、出宮の際にここまで乗ってきた自分の輿へと戻ると
バサリ・・と、まるで鷹が飛び立つように、両方の大袖を一度、鮮やかに払ってから
妃のそれと同じ紫檀の椅子へ静かに腰をおとすと、遥か先を見るかのように顎を上げた。
 
 
 
 
紅の大笠は皇太子の輿の隣に掲げられ
青の大笠は皇太子妃の輿に同じく掲げられる。
 
 
 
 
二本の轅(ながえ)に其々数名ずつ並んだ者共が、音も無くそれらを腰の辺りまで持ち上げると
皇太子が到着したときと同じように、とりどりの大旗の先導で御駕行列は進み出した。
 
 
 
 
 
 
 
 
緩々と去っていく行列を見送って、その場に居並んだ者達は皆ホッと肩の力を抜いた。
 
ここへ来たのは単に王族としての義務を果たす為で、云わば義務的な気持ちでいた。
決して 皇太子や、現皇室に対する [忠] では無かった。
 
 
 
((( ・・・今見たものはなんだったんだ・・・? )))
 
まるで奇術の世界に迷い込んで、やっと元の世界に戻ってきたような、妙な気持ち・・・。
 
 
 
今日、自分達が目にした皇太子は
今まで自分の見てきた、そして思ってきた [皇太子イ・シン] とは まるで別人で
嘗ての聖祖皇帝にそっくりな、圧倒的な威厳に満ちていた。
 
それにあの、皇太子妃になった庶民出の娘・・・・
生まれながらの王族の子女が、足元にも及ばないほどの優雅さを湛えた美貌を持ち
国母とはこういう資質を持った者こそが相応しいと言われた先の皇后、パク皇太后と同じ
いや、もしかするとそれ以上に素晴らしい国母の資質を持っているかもしれない娘・・・。
 
 
 
((( これは、不味い事になるかもしれない・・・ )))
 
 
 
骨の髄まで日和見主義が身に付いている王族達は、こういったモノにはひどく敏感だ。
それまで [義誠君殿下一辺倒] だった結束は、脆くもこの日を以って崩壊する。
 
此れまで通り [義誠君派] を貫く者の中にも、
その実 [義誠君] [皇太子] のどちらにでも転がれるように、情勢を窺う者が増えることになる。
 
そしてまだ、極少数ではあるが、元々力を持たず、皇太子の資質に疑問を感じていた為に
消去法的に長い物に巻かれる態度を取っていただけの、良心的な者達は
特に声をあげる事も無いが、静かに [皇太子派] に、なる事を決意してゆく。
 
彼等はシンが不甲斐無いから、ユルに心を向けていただけで
シンとは別の意味で、傲慢さの見えるユルは愚帝になりそうな予感を拭えずにいたのだ。
 
そんな彼らにとって、この日のシン、そしてチェギョンの姿は、とても好ましいものに思えたし
また、本来の王族としての存在意義を、改めて己に問い直す良い契機となったらしい。
 
 
 
こんな王族達の蠢(うごめ)きを、内心では面白がりながら眺めている最長老だったが
老練な策士はそんな素振りは さや とも見せないままだ。
 
・・・只1人を除いて・・・・。
 
 
 
 
 
 
「ようやく、青龍がお目覚めになったとみえる。
随分と長い午睡じゃったが・・・。
お陰で妃宮様の選定はスムーズに事が運べたし
まぁ、丁度良い頃合い、というところかの?」
 
「はい。朱雀のほうも、同じくお目覚めになったようにございます。
全て、妃宮様のお力かと・・・?」
 
「ほぅ・・・?それはまた、青龍の方にとって心強かろう。
ユ長老。先帝の頼みとは言え、そなたには苦しい時も多かったろう。
朱雀の方の御心痛を思えば、親であれば直ぐにでも・・・・」
 
「いいえ。最長老様。私は先帝陛下のお言葉は正しかったと思います。
どんなに素晴らしい果実も、青いうちに風雨で地に落ちてしまえばそれまで。
悪天候に耐え、陽に曝され、そして漸く熟した果実は大層美味しゅうございます。」
 
「ふむ・・。確かに、風雨の日々に耐えてこられた青龍・朱雀のお二方だからこそ
今のあの方々が養われ、故に、妃宮様にも直ぐに心を開かれたとも言えるかもしれぬのう?
が、だからこそ、今後も油断は出来ぬな。今はまだ只単に驚いているだけだが
その内に あの者達の中には、青龍の珠を傷付け、すげ替えたがる者も現れるかもしれぬ。
そうなれば今度こそ、青龍は二度と目覚めぬ深い眠りについてしまうやも知れぬでな。」
 
「御意。既にそのように手筈は整えておりますれば・・・。」
 
 
 
 
ニッコリと品良く微笑んだ老紳士は、娘とよく似た孫の安寧を誰よりも強く願っているのだ。
そして此れまでの時を、悪戯に過ごしてきたのでもないのだ。
 
それと知っている最長老はニヤリと口の端で笑みを作ると
常の鋭い眼光を少しだけ和ませて、何かを懐かしむように呟いた。
 
 
 
 
「賢帝と呼ばれるソンジョが実際は只の我が侭ジジイだと知っているのは
儂とそなたと、そして我等の友垣であったチェヨンくらいじゃろうな。
そなたには暗行御使のような真似をさせ、チェヨンには妃宮様を所望した。
そして儂には青龍とその掌中の珠のお守りときた。死んでも人使いの荒い男じゃ。
自分が死んで淋しかったのか、直ぐにチェヨンを呼びおってからに・・・。
お陰で儂は、まだ当分死ねん。」
 
 
 
 
うそぶきながらも、老虎は空を見上げて
先程この目に焼き付けた、彼等の孫の貴くも麗しい姿を
いつかあの世に着いたら、自慢気に話してやろうと思う。
 
 
きっとチェヨンは、妃宮様のような柔らかく温かな笑顔で嬉しそうに頷くだろう。
そしてソンジョは、死ぬのが早かったと地団太を踏んで悔しがるかもしれない。
 
 
 
 
春浅い晴天の、雲ひとつ無い青空は、友等の祝いのシルシであろうか ――― ?