入宮の挨拶の為に皇后陛下にお会いした日に一度訪れた以外で
チェギョンが景福宮に入ったのはこの日が初めて。
 
緊張は勿論あったが、それよりも旺盛な好奇心がムクムクと頭をもたげて
あちらこちらを観察したくて堪らない。
 
 
しかし、そんな逞しい好奇心すらもねじ伏せる威力が今、彼女の頭部を覆っていた。
 
 
最初に見たとき、(冠岳山(クァナクサン)みたいです♪)と興味深く思ったのも束の間
練習の為・・と被ってみたら、とにかく重い。まるでキムチの甕を頭に乗せてる気分だった。
 
途端に、儀式で此れを被って [ほぼ終日] 過ごす事に、不安を感じ始めてしまい
昨日は思わずシンに、その不安を打ち明けてしまったのだ。(プリンに釣られて・・・)
 
 
 
(嫁ぐ家の風習に馴染めぬなど、あってはならぬことですのにっ!!)
 
 
 
両親が共働きだった所為で、チェギョンは祖父に育てられたも同然と言っていい。
だからなのか?彼女の結婚観は、かなり時代にミスマッチだった。
仕方なく従うのではなく、ヤル気満々で楽しそうに学ぼうとするので自然と覚えも良くなる。
その上、元々祖父から学んでいた下地もあったので、入宮後の順応が早かったともいえる。
 
要するにチェギョンにとって、この鬘の所為で [首がへし折れてしまいそうな自分] が
入宮以来初めての [敗北感] や [罪悪感] を、薄っすらと感じさせてしまうのだ。
 
シュンと萎んだチェギョンを少しの間見ていたシンは、互いの控え室に別れる直前
先導するチェ尚宮に向かって、鬘を暫く外しておくように指示を出した。
 
 
 
(きっとあの時も、シン君様は気を使ってくださったに違いないです・・・)
 
 
 
親迎の礼の後、自分を輿まで抱き上げて運んだシンは
今は別室にて、次に控えている [謁見の儀] の為の準備をしている。
 
チェギョンの控え室は、彼のよりも少し手前にあったのだが
別れ際、チェギョンにも「今日は長い。少しでも休養を・・・。」と、柔らかく微笑みかけた。
 
 
 
(あれは・・・[僕]バージョンのシン君様でしたのに・・・ハァ~・・・)
 
 
 
シンから最初に [僕] と [俺] という2人の彼が存在する事を聞いた時
チェギョンは自分の中にあった違和感が その所為だったのだと納得した。
 
感覚を言葉にするのは難しいのだが、それでも一生懸命チェギョンはシンに
表情の中に時々垣間見える別人の雰囲気が、[俺] のシンだったのではないか?と思うと伝えた。
 
その時にシンは初めてチェギョンの、特殊な才能の事を知り、嬉しそうに笑ったのだ。
「お前は本当に俺の妻にピッタリなんだな!」と、少し興奮気味に言いながら・・・。
 
人一倍、ひとの表情に敏感な彼女であれば、シンが今はどっちの自分だと言わなくても
その使い分けを理解してもらえるし、それによってチェギョンを混乱させることも無いのだ。 
 
 
 
 
 
 
基本的に彼は、チェギョンと2人きりになれる時以外は [僕] で あり続けた。
それはそれは、完璧に使い分けるシンに、最初は戸惑っていたチェギョンも
彼女なりのコツを掴んで、まだ少しぎこちないながらも、かなり見事に対応している。
 
チェギョンは、いつも彼に最初に声をかけられる時に、ジィッと彼を見つめてから
[僕] に対しては [殿下様] と呼び、[俺] に対しては [シン君様] と呼び分ける。
シンはシンで、チェギョンの事を 前者は [妃宮(婚姻後)] 、後者は [チェギョン] と呼ぶ。
 
 
これは2人で密かに決めたルールだった。
 
 
シンの幼少時代の話を聞けば、この [僕] という存在が
どれ程彼にとって、大切なものかは想像に難くない。
 
このルールを完璧に守る事は、チェギョンにしてみれば
シンの身の安全を守る行為にも直結する。
だから絶対に間違っては駄目だ、と思っていた。
 
 
 
 
 
 
しかし、今日は最初からシンがおかしかった。
 
 
[親迎の礼] の為に、階の欄干近くに控えて
夫君の到着を待っていたチェギョンの姿に気付いて直ぐに、シンは嬉しそうに笑った。
 
 
チェギョンはその時、おや?と、内心首を捻ったのだ。
その笑顔は、厳密に言えば [僕+俺] で作られた [3人目のイ・シン] だったから・・・。
 
 
[僕] に [俺] が混じっていて、渾然一体となるなんて
2つを全くの別人のように使い分ける彼にしては、珍しいことだ。
 
シンと出会った当初に見た違和感は、おそらくチェギョンにしか解らないくらい僅かなものだが
今日のはきっと、あの場にいた者達の殆どが気付いたのではないか?と思われた。
 
そして父と母の前での彼は
ほぼ全部、彼が [ホンモノ] と呼ぶ彼だった。
 
あの場所には、事情を知らないだろうチェギョン付きの女官と、両親がいたというのに・・・。
 
 
 
 
 
その後も玉の簾越しに見えるシンは、ドンドン [俺] でしかなくなっていく。
 
 
 
 
 
鬘が重過ぎて、身長差の大きいシンの表情を読み難かったこともあるが
チェギョンはおそらく混乱していたのだろう。
  
2人で取り決めたルールとは違うことをしてしまったのだ。 
 
 
と言っても・・・。
 
 
彼女が気に病んでいる間違いなど本当に些細なもので
彼を「シン君様」と呼んだに過ぎない。
 
そもそもの2人のルールを知らない者からすれば
別段おかしいとも思わない事なハズだ。
 
 
 
 
けれども、祖父との約束だけでなく、彼の過去を聞いた今となっては
“ 自分の生まれた理由(わけ)は、このお方をお助けしてお守りすることに違いない! ”
と、使命のように感じて何事も、シンを守る為だ、とばかりに一生懸命なチェギョンからすると
昨日の鬘の話と言い、今日の失敗と言い、自分が役立たずに思えてくるのだ。
 
基本的に前向きで楽観的なチェギョンだったが、こういう気分になると決まって聞こえてくる
[独り言大魔神] の独り言が、まるで鎖のように自分の心を縛ってしまう。
 
 
(シン君様はお優しいので、気にするなと仰いましたが・・・)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今日もチェ尚宮にお願いして、懐にはお守りのように
シンから貰った菓子の包み紙を、懐に忍ばせていた。
 
無意識にその部分に手をやると、カサ・・と、音が聞こえる。
それを聞くと、チェギョンはホッと息を吐いて、ギューッと目を瞑った。
 
 
 
今日までのシンと過ごした時間を、話したことを、ひとつづつ思い出してゆく。
  
シンの笑顔や、優しい眼差し、そして彼の綺麗な涙・・・・
 
 そうする内に、不思議と不安は消えてゆくのだが・・・・
 
 
 
(何故でしょう?心臓が、ツクツク痛いです?? ・・・もしかして???
・・・(ハァ)    ・・・やっぱり首を鍛えておくべきでしたーーーっっ!!!
きっと首の血管が縮んで、上手く血を運べなくなっているんですね!?!?
うーんとぉ・・確か・・・、脳には1分毎に1,500ミリリットルの血液が流れていたはずですが
幾らか阻害されてしまったでしょうか?その所為で脳の働きも悪くなって、失敗したとか?
ハァ~・・。まだツクツクします・・・。でも、首よりも心臓が痛いのは何故でしょう?
この鬘は、冠岳山を全力疾走で昇りきるくらい、心臓に負担がある様です・・・。恐るべしです!)
 
 
 
実はこの少女、こう見えても理系脳であり、科学の子なのである ――― 。
 
 
 
が、やっぱりどこかが、チョッピリずれているのだ。
彼女は今、胸を押さえつつ目の前の鬘を恨めしげに見つめている。
鬘を被ってない時点で、その [ツクツク痛む] 理由は違うんじゃないだろうか?
 
・・・とは思わないらしい。
 
 
 
 
 
 
その時だった。
 
 
 
 
 
 
「チェギョンッ!」
 
「!?!? シ、・・・シン君様っっ !?!?」
 
「お前、もうこれ、被らなくていいぞっ♪」
 
「ふぇ?」
 
「さっき・・・、別れ際に、お前の顔色が悪かったから、皇后様にお願いしてみたんだ。
パレードの時はお前も俺も洋装での正装になるから、それを繰り上げて頂けないか?って。
元々この服装は嘉礼の儀の為に着なければならないモノだが、それは恙無く終了してるしな。
一応皇太后様にも聞いていただいたが、問題は無いとの仰せだ。チェギョン!良かったなっ♪」
 
 
 
いきなり、飛び込むようにチェギョンの前に現れたシンは、満面の笑みで早口にまくし立てると
椅子に座っていたチェギョンの膝裏をヒョイッと掬い上げて、抱き上げると
何度も「良かったな♪」と、繰り返し嬉しそうに言いながら、グルグルと回した。
 
 
 
「はい♪シン君様、ありがとうございます♪
あの冠岳山カツラは、脳に血を送らなくなるから、恐るべし!なのです!」
 
 
 
チェギョンの、そんな言葉を聞くなり急にピタリと止まったシンは、
今度は青褪めながら、チェギョンの身体を抱き上げたままなのも忘れて
体調をあれこれと心配し始める。
 
それに対して、もう大丈夫だから、と 
こちらもまた、嬉しそうにニコニコしながら 答えるチェギョン。
 
けれどもチェギョンは、不思議に思ってもいた。
 
(どうしてまた、心臓がツクツク痛くなりましたか???)
 
それは、シンの顔を見るたびに、酷くなるようだった。
 
 
 
 
「シン君様ぁ・・・。心臓が、一寸ですが痛いです。・・・私、病気でしょうか?」
 
 
 
 
謁見の儀と、婚礼パレードが、其々1時間ほど予定繰り下げの連絡が入ったのは
これより半時ばかり後の事。
 
 
 
 
 
 
 
 
漸くお出ましとなった皇太子両殿下の姿は、後日、宮の広報室より発表されたパレードの遅延理由
~慣れない儀式による皇太子妃の体調不良を、皇太子が心配して医師の診断を仰いだ為~
と共に、その後何年もの間、現実に起こった御伽話のように語られる事となる。
 
 
純白のローブ・デコルテに、金色の線が2本入った赤い懸章をたすき掛けにかけた皇太子妃と
妃の背を支えるようにして寄り添う、長身の正装姿の皇太子は、少女達の夢物語そのもので
絵本から飛び出したように美しく、そしてまた、見る者を幸せな気持ちにするくらい嬉しそうだった。