夫に手を引かれ、その人の眠る場所へと歩み寄ったチェギョンは
持ってきたバスケットの中から、上部を切り落とした、リンゴやナシ、みかんを並べ
他にも沢山のお供え物を、東から順に、手際よく並べてゆく。
 
重かったバスケットは、見る見るうちに軽くなっていき
最初は驚いたようにチェギョンの行動を見守っていたシンが、
最後に彼女が取り出した御酒を 「俺がやる」 と言って受け取った。
 
見よう見まねで、小さな杯に並々と注ぎいれると
今度は当然のように、先に一歩下がって立っていたチェギョンの隣に並んだ。
 
 
 
ついさっき指輪を交わして、愛を誓い合ったばかりの2人が
互いに何の合図も無く、徐にクンジョルを始める。
 
 
 
ピタリと鏡を合わせたかのように息の合った動作は、
静かにその場の空気を、清浄なものに清めていった ――― 。
 
 
 
(ありがとうございました。)
 
 
 
それ以上の言葉は見つからない。
複雑に絡み合う感謝で一杯の気持ちを、そんなシンプルな言葉に精一杯込めた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「チェギョン、お前は何故 俺の背中に火傷の痕があると思ったんだ?
それに肋骨とか、イブとか・・・どういう意味なんだ?」
 
「・・・え?」
 
「まだ俺が皇太孫だった頃、使われていない殿舎が火災で全焼したんだ。
俺は、どういう訳だかその殿舎の中で気を失って倒れていて、イギサに助け出されたんだ。
何故そんなところにいたのか全く解らない。・・・前後の記憶が一切無いんだ。
・・・目が覚めた時は背中に酷い火傷を負って、病院のベッドの上でうつ伏せに寝かされていた。
覚えているのは、その時に俺の体に残る折檻の痕が見つかって、色々聞かれた事と
何度も形成手術を受けさせられた事ぐらいで・・・。」
 
「そう・・・ですか・・・。」
 
「でも、そういえば・・・、あの頃だったかもしれないな?
食事の事は変わらなかったが、折檻は無くなったんだ・・・・。
怪我の所為だと思っていたけど、お祖父様か誰かが守って下さったのだろうか・・・・?」
 
 
 
少し夫と2人にして欲しい、と皇太后が言ったので
シンとチェギョンは今、休憩所である斎室まで戻って来ていた。
 
当時の記憶が無い、というシンを一瞬複雑そうな表情で見ていたチェギョンだったが
そのまま当時の記憶を辿るのに夢中になってしまったシンがそれと気付くことはなかった。
 
 
 
覚えていないのなら、そのほうが良いのかもしれない・・・。とチェギョンは思う。
 
 
 
チェギョンにとっては大切な彼との思い出だったが
あの頃の彼は今の話にもあったように、決して幸せな時代ではなかったのだろう。
 
[知恵の樹の実] に託(かこつ)けて、彼が食べ物を口にしようとしなかったのは
今思えば食べる事に生理的な恐怖を感じていた所為なのかもしれない。
 
自分は思い出せて嬉しいが、彼が当時を思い出すことが必ずしも良いことかどうか?
と考えると、チェギョンには答えが出せなかった。
 
 
 
(私が、シン君様の分まで覚えていれば良いのです♪
お爺ちゃん様、上皇陛下様、それで許してくださいませね?)
 
 
 
生来楽観的なチェギョンは、フフフッ♪と面白そうに笑いながら、気持ちにケリをつけると
フンフンと鼻歌交じりに、バスケットの中に残っていた重箱と水筒を取り出した。
 
 
 
「シン君様、お腹が空きませんか?簡単なものしかありませんが、お昼にしませんか?」
 
「え?・・・あ、これ・・・!キムパプ!チェギョンが作ってくれたのかっ!?」
 
「シン君様が一度食べてみたいと仰っていたので、水刺間にお邪魔して作らせて頂きました。
それと・・・、あの・・・、もし、シン君様がお嫌でなければ、これからも時々で良いので
お料理をさせて頂けないでしょうか?あ!これを食べてお口に合わないようでしたら・・・・」
 
「作ってくれっっ!!!!」
 
 
 
チェギョンの手元を、嬉しそうに見ていたシンは、料理をしたいというチェギョンの言葉に
思いっきり顔をあげると、子供のように瞳を輝かせて大きな声でそう言った。
 
それから直ぐに、箸を使わず、素手でキムパプを一切れ取って口に放り込むと
モグモグと幸せそうに口を動かしつつ、チェギョンに向かって親指を突き出して何度も頷いた。
 
昨夜のシンの食事風景とはあまりにも違う、自由で闊達で、楽しそうなその姿に
チェギョンの表情もニコニコと綻んでいき、シンに差し出されたキムパプに、パクンと食いついた。
 
 
 
食事に苦労しているシンに、少しでも安心してご飯を食べてもらいたい。
 
 
 
東宮殿の水刺間の人達は会ってみると皆とても感じが良くて良い人達だったし
元々シンの言葉からも、彼らを疑ってはいなかった。
 
別宮での食事を思い出せば、あの豪華で彩りも良く味も最高レベルの料理などは
とても自分には作れないだろう、と一瞬躊躇したりもする。
 
訓育の休憩中に遊びに来たシンが言った言葉が無ければ
こんな事は考えなかったかもしれない・・・・。
 
 
 
「家庭の味、キムパプの味、そんなものも知らない俺っていう人間は
時々、皇太子って名前のロボットなんじゃないかと思う時があった。
クラスメートが弁当を広げて、自分の家の味を自慢するのが羨ましくて妬ましくて
昼はいつも、皇太子の専用ルームで1人で宮から届けられる弁当を食べていたんだ。」
 
 
 
「皇太子なんかほんと、なるもんじゃない。」と笑っていたけれど、全然目が笑ってなくて
時々彼が見せる、あの、がらんどうの空虚な瞳だった。
 
両親共働きの家庭に長女として育ち、料理上手な両親にあれこれ仕込まれたお陰で
チェギョンの料理の腕前は、家庭料理限定ではあるけれど、なかなかのものだったし
彼女自身が料理をするのが好きだった事もあり、そんな空虚な瞳をする夫に
いつか家庭の味を教えてあげたいと漠然と思っていたのだが、昨夜の食事の一件で
その思いが殊更に強くなった。
 
しかも、ドキドキしながらチェ尚宮に相談したところ、二つ返事で応援してくれると言ってくれた。
 
皇太子妃という立場は想像以上に忙しいらしく、加えて学業も両立しなければならない為
食事の全てをチェギョンが作る事は難しいだろうが、それでも週末や、公務の無い日に
一食作るくらいの時間は取れるだろうから、臨機応変に調整してくれるという。
 
自分の作ったお弁当が彼の口に合ったら、この事をシンに提案して
許可が出ればなるべく時間が許す限り、食事は自分が作りたいと思っていたのだが
こんなにも喜ばれるとは思ってもいなかったので、驚いた。
 
 
 
「チェギョン、このキムパプはどれも皆味が違うのか?」
 
「あ、はい。野菜は全部一緒ですが、チーズやハム、お肉やアンチョビなど、
ちょっとずつ具を変えてみました。シン君様のお好みが判らなかったので・・・」
 
「全部美味いっ!!チェギョンは料理上手なんだな!!見た目も凄く綺麗だ!!」
 
 
 
たかがキムパプの具を変えただけで、料理上手は言い過ぎでは?と思うけれど
本当に子供のように頬張って、ご飯粒を飛ばしそうな勢いで喜んでいるシンを見れば
ただただ嬉しくなって、次は何を作ってみようか?とワクワクしてくるチェギョンだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
暫くして戻ってきた皇太后も、このランチに参加して、いつもは穏やかで比較的無口なシンが
終始ハイテンションでチェギョンを褒めちぎる姿を、最初は驚き、次に面白がり
最後は何かを納得したような顔で見守っていた。
 
食後のお茶を飲んでいると、シンの携帯にコン内官から至急の連絡が入り
彼は渋々、と言わんばかりの表情で不貞腐れつつも、詳しく話すべく斎室を出て行く。
 
 
 
「チェギョン。貴女は、昔の頃を思い出したのではありませんか?」
 
!!!!
 
「太子は・・・、シンはまだ思い出せないようですが・・・。」
 
「皇太后様、そのことなのですが・・・・」
 
「婆で良いですよ。ここは誰もいません。」
 
「はい、お婆様。幼い頃に仲良く遊んだ男の子が、シン君様だったのだと先程気付きました。
私の祖父と上皇陛下様には、本当に、感謝してもしきれません。
あの男の子は、私の初恋の人でしたから、約束が果たせて嬉しく思います・・・・」
 
「でも・・・と言いたげな顔をしていますね?」
 
「はい。祖父は何故シン君様の無事を私に教えてくれなかったのでしょう?
アルフレッドを、まるで形見分けのように私に寄こしただけで・・・。」
 
「・・・チェギョン。貴女は四書五経など、訓育で必要な基礎知識は
全てチェヨン氏から幼い頃に学んでいたと聞きました。それはいつ頃始めたのですか?
その時に貴女がシンの許婚である事を、貴女のお祖父様は伝えていたのですか?」
 
「・・・確か、小学校に上がったころ?・・・だった気がします。許婚の事は何も知りませんでした。
ただ・・・、大きくなったら独りぼっちの王子様を助けて、味方になってやれとだけ・・・・。」
 
「やはりそうだったのですか・・・。チェギョン。少し散歩に付き合ってくれませんか?
あなたのお弁当が美味し過ぎて、食べ過ぎてしまったので、腹ごなしの運動です。(笑)」
 
 
 
近くに控えていたイギサに、警護は遠巻きにするように、と暗に人払いを匂わせつつ
年齢にしてはスックリと機敏に立ち上がった皇太后は、チェギョンを連れて再び禁川橋を渡り
夫の眠る場所へと歩いていった。