「貴女のお祖父様は、一旦は許婚の話を断られたのです。」
 
 
「私も、ソンジョ陛下から聞いた範囲でしか知り得ないのですが・・・」
と前置きをしてから、サラリとそう言った皇太后の言葉に、チェギョンは目を見開いた。
 
 
 
 
大君の息子として生まれたシンは利発で心優しく、明るい子供だったという。
ところが皇太孫として宮に住むようになってから、そんなシンは急激に為りを潜め
しかもどんどん痩せてきて、度々貧血で倒れるようになってしまった。
 
宮廷医官に診せても栄養失調気味であること以外に病気は見つからない。
が、そもそも、皇太孫が栄養失調など、あってはならないことなので
直ぐに詳細を調べさせたが、シンは偏食で食が細く、環境が変わった所為もあって
一時的な拒食傾向ではないか?と結論が出された。
 
その結論を出したのは、ユルの乳母であるソ尚宮で
皇太孫殿の尚宮や女官を仕切っていたのも彼女であり
その報告の信憑性は後に疑問視されるのだが、この時点では不審な点も無く
誰もがその報告を信じ、そしてシンの心が落ち着いて元気になることを祈った。
 
 
そんな時、当時皇帝であったソンジョがお忍びでチェヨンの家に行き
明るく可愛らしいチェギョンを見て、シンと遊ばせてくれないかとチェヨンに頼んだのだ。
 
同じ年頃の気安さなのか、相性が良かったのか、シンとチェギョンは直ぐに仲良くなる。
 
この頃、ユル側の動きを内偵していたコン内官から、皇太孫問題に関する不審な動きが
報告され始めていたので、様々な要素を考慮して、シンにはチェギョンに自分が皇室の人間だと
教えてはいけない、秘密が守れなければもう一緒に遊べなくなると伝えた。
 
まだ幼いながらに、何か感じるところでもあったのだろうか?
 
シンは多くを聞かずに、直ぐにお互いの呼び名を作って
どんな時もその名前でしかチェギョンを呼ばなくなった。
 
そして宮にチェギョンが遊びに来た時は、決して皇太孫殿には近付かず
禁苑の傍の、ひと気のあまり無い庭の隅にチェギョンを連れて行って遊ぶのだ。
 
そんなシンの不可思議な周到さに首を捻りつつも、ソンジョはチェヨンと共に
幼い孫達の友情を温かく見守るうちに、少しずつ明るさを取り戻し始めた孫に安堵し
同時にチェヨンに対して、シンの妃にチェギョンをくれないか?と打診し始めた。
 
最初は畏れ多いと断っていたチェヨンも、皇帝の親友としてそれなりに知っている宮の中で
いつも息苦しそうにしているシンが、チェギョンといる時だけは子供らしい顔に戻るのを見るうちに
元々の優しい気質が絆されたようで、渋々ながらも2人がそれを望むなら、と承諾した。
 
 
 
「あの火災は、放火だったのです。
最初は、職員がこっそり吸ったタバコの火の不始末による失火だとされましたが
調べが進むうちにそうではないと・・・・。」
 
 
 
苦しげに言葉を濁す皇太后の雰囲気と、シンから聞かされていたユルの話が繋がって
おそらくは皇太孫をシンからユルに替えたい為の陰謀が働いていたのだろうと思った。
 
 
 
「お婆様・・・。シン君様から少しですが聞いていますので、それ以上は仰らないで平気です。
それよりもその事と、祖父が許婚を辞退した事は、何か関係があるのでしょうか?」
 
「・・・チェヨン氏は、とても人情に厚く優しい方でした。
だからこそ、貴女が苦労するとわかっていても、シンの為と思って許婚の事を了承したのです。
けれども、自分の孫が命に関わるような危ない目に遭い、そしてシンは目覚めたときに
貴女の記憶を全て無くしていました。幼いながらに貴女を守ろうと必死だったのでしょう。
シンの護衛に付けていたイギサが、貴女方2人を見つけたとき、シンは貴女に覆いかぶさって
倒れていたそうです。あの子の賢さならば、自分達は もう助からないかもしれないと
絶望したのかもしれません。貴女が死んでしまったかもしれないと思う恐怖は
貴女の存在だけが頼りだった当時のシンには、耐えられないものだったのだと思います。
それは・・・・、貴女という存在を元々無かったものとして、記憶から消し去ってしまうほど・・・。」
 
!!!!!
 
「この事を知ったチェヨン氏は、許婚を辞退されました。
シンが貴女の事を覚えていないのなら、全てを2人が出会う前に戻しましょうと仰ったそうです。
貴女の身の安全の事もあったのでしょう。けれども、おそらくはシンの為だったのだと思います。
シンの身体には折檻の痕があり、あの子がどれだけ辛い環境の中にいたか・・・
恥ずかしい話ですが、私達はあの時初めて知ったのです。そしてそんな状況の中で
貴女は秘密の花園のような存在だったのでしょう。失うくらいなら、無かったことにしたいと
無意識に暗示をかけてしまうほどの存在・・・。安易に貴女が無事だったと伝えれば良いという
状態ではありませんでした。心の鍵をこじ開ければ、下手をすれば心は壊れてしまう・・・
そういうものなのだそうです。暗示は一生解けないこともある・・・。だから・・・」
 
「・・・祖父は、シン君様が生きているとも死んだとも言いませんでした。
私は、アルフレッドをシン君様のものだったと渡されただけで・・・・。
それから、私がシン君様のお嫁さんになる約束をしたのだと、彼に会いたいと言う度に
ただ悲しそうな顔で首を振るだけだったので、あの男の子はもう生きていないのでは?と・・・。
アルフレッドは彼の形見なのではないかと、そう思っていました。」
 
「・・・アルフレッド・・・。あの子はボロボロではありませんでしたか?」
 
「はい・・・。あちこちが傷んで、中綿が出ていたので母に教えてもらって少しずつ修理しました。
ちょっと歪なところもあるのですが、何故かやり直す気にはなれなくて・・・。
今は、私が作った洋服を着せて、誤魔化しているのですが・・・。」
 
「・・・・あれを見た貴女なら解るでしょうが、おかしいと思いませんか?
あのテディベアは、新品でシンの手元に渡ってから、まだ数ヶ月だったのです。」
 
「え!?」
 
「・・・シンが、自分の身代わりをさせていたのです。
虐待を受ける子供の中に、時々そういうことをする子がいるのだそうです。」
 
!!!!!
 
「ほつれていただけではなかったでしょう?
私は、あれを見たときのショックを、今でも忘れる事が出来ません。
背中やお尻の部分が、赤いマジックで塗られ、その上を黒いマジックで塗っていた・・・。
自分の痣の変化に合わせて塗り重ねていたようです。シンなりのSOSだったのかもしれません。
アルフレッドを見たチェヨン氏が言ったのです。この子をチェギョンにくれないか?と・・・。」
 
「・・・理由は・・・何か言っていたでしょうか?祖父は何故・・・?」
 
「アルフレッドは、シンにとっても私達にとっても忘れた方が良い存在だけれど
捨ててしまっては可哀想だから、自分の孫に大切に可愛がらせるとだけ・・・。
チェヨン氏が可哀想に思ったのはアルフレッドではなく、シンの傷付いた心だったのでしょう。
だから、シン自身の代わりに、貴女にアルフレッドの傷を癒してもらいたかったのかも・・・?
今となっては、真実は解りませんが・・・私はそんな気がしています。」
 
 
 
チェギョンを忘れたシンは、背中の火傷の痕を綺麗にする形成手術に併せて
心の治療も施されたという。
 
チェギョンに関することを思い出すことに、激しい拒絶反応を見せて
吐き気や頭痛を訴える事がわかったが、同時にシンが無意識下で
チェギョンを激しく求めている事も、心理療法士から報告された。
 
シンの立場上、成長するに連れて益々大きなストレスがかかってくるのは明白で
このまま不完全な精神状態のままで、そこに君臨する事は難しいだろうと ――― 。
 
 
 
 
チェヨンは、チェギョンにシンの事を忘れさせる為にも
あたかもシンが死んだかのように振舞い続けたが、チェギョンがシンを忘れる事は無く
全てを忘れているはずのシンもまた、チェギョンの存在無くして健全な精神に戻れないと
ソンジョから聞かされ、許婚の件を今一度再考して欲しいと頼まれて大いに悩んだようだ。
 
そして・・・、火災から3年の後、シンが皇太子として冊封された頃、
チェヨンは漸く許婚の件を、条件付ではあるが承諾する覚悟を決めたという。
 
 
 
「取り合えず今後貴女に、お妃に必要な教育の基礎部分を施しておくが
貴女にはシンが [アダム] である事も、許婚の件も、一切伏せておくので
シンが貴女との婚姻を望まなければ、捨て置いてくれて構わない。
シンがその婚姻を望み、貴女もそれを受け入れるなら、婚姻を認めよう。
・・・そう、チェヨン氏は陛下に言ったそうです。」
 
 
 
 
 
 
アダムがシンだと解れば、チェギョンはきっと期待する。
シンにその記憶が無い以上、婚姻を断る可能性は大いにあった。
 
だから、祖父は自分に [あだむさま] が [独りぼっちの王子様] だとは言わなかった。
・・・いや、言えなかったのかもしれない。
 
 
 “ 沢山沢山我慢をして、平気なフリをして
   独りぼっちでも頑張っている王子様には遊び相手がいない。 ”
 
 
そう言った祖父は何を思っていたのだろう?
彼の遊び相手は、他でもなく自分の事だったのだ。
 
 
 “ だぁれも味方のいない王子様の味方になって
   一緒にお城で暮らしてやって欲しい。 ”
 
 
祖父はどこまで知っていたのだろう?
あの人の孤独を・・・。そして苦しみを・・・。