チェヨンの意思を尊重しつつも、その時まで何もせずに黙っている事は出来なかった
と、皇太后は悪戯そうに笑って、続きを話し始めた。
 
 
 
「そこで、ソンジョ陛下と私は、シンに度々貴女の話をする事にしました。
記憶は戻らないものの、民間出身の貴女という許婚がいる事を知ったシンは
どういう訳だか、いつも嬉しそうな顔をするのです。それも心から・・・。
私達は不思議に思いました。シンにしてみれば会った事も無いはずの貴女なのに・・・と。
それで、何度か試させた事があるのです。貴女の家まで連れて行き、思い出さないかと・・・。」
 
「・・・でも・・・」
 
「ええ。思い出すことはありませんでした。」
 
 
 
何か辛い事でも思い出したのだろうか?
ゆっくりと歩いていた歩みを止めた皇太后が、僅かにその表情を曇らせた。
 
それから少しの逡巡らしき間があって、再びチェギョンに向けられた老女の視線は
この国の最高位にいる女性そのものの、凛とした決意に満ちたものだった。
 
 
 
「・・・チェギョン。新行が決まりました。シンも一緒に貴女の実家に行くことになります。
貴女には伝えておかなければならない事があります。
シンは、酷い頭痛を訴えた後に、前後の記憶を無くす事があります。
貴女の家の塀を見ただけで、そうなることもあるかもしれません。
当日は取材陣も集まります。皇太子としてのシンを、彼等から上手く守ってください。」
 
「お婆・・・様・・・?」
 
「シンは貴女との婚姻を望み、貴女も事情はあるもののシンとの婚姻を受け入れてくれました。
そして今日、私は貴女方が本当に想い合っている事をこの目で見ることが出来ました。
ですからシンの妻として、あの子を支える妃として、貴女には知っておいて貰いたいと思います。
私は・・・、私とソンジョ陛下は、シンこそが皇帝に相応しい器だと思っています。
シンは皇位を継ぐ事が嫌だったのでしょう。ずっと才の無いフリで周囲を欺いていましたが・・・」
 
!!!!!
 
「フフッ。チェギョン、驚く事はありません。あの子の母も、とうに気付いていますよ?
先日皇后に、ミンに言われたのです。もしもシンが皇太子を降りたいと本気で願ったら
それを聞き届けて欲しいと・・・。私もそれも致し方ないかもしれぬと思いました。
このままシンの芝居に付き合う事が、幼い頃にあの子の心を傷つけた私達の償いになるならば
皇室の未来よりも、孫の幸せを願うただの祖母でいるべきではないかと・・・。
ですが貴女方の嘉礼を見て、心変わりしました。やはり、天はシンをお選びになったのです。
先程兄である最長老からも電話で報告を受けましたが、どうやらシンも覚悟を決めたようです。
チェギョン、今が大事な時なのです。皇太子の不安材料をマスコミに曝してはなりません。
貴女が守ってやって欲しいのです。シンに何か変化があっても、貴女なら気付けるでしょう?」
 
「あの・・・新行を中止しては・・・駄目なのでしょうか?
シン君様は当時の事を思い出すのがお辛いのですよね? でしたら・・・・」
 
「チェギョン・・・。貴女は・・・、それでいいのですか?
皇室に嫁げば、実家の両親に会える機会は殆ど無くなります。
新行はその数少ないチャンスなのですよ?
それに、シンにあの頃の事を忘れられたままでも淋しくないのですか?
思い出して欲しいと思いませんか?」
 
「・・・嫁いだからには、私はシン家の娘である前に、イ家の嫁です。
たとえ対面が叶わなくとも、両親が私を愛してくれ、私も両親を愛している事は変わりませんし
私がシン君様と幸せになることが、両親への孝行だと思っていますから、会えなくても平気です。
それから・・・、シン君様が思い出したくないのであれば、無理に思い出さなくても良いと思います。
その分私がいっぱいいっぱい覚えていますから!私が2人分覚えていればきっとあの頃の
[あだむ] と [いぶ] も喜んでくれると思います!だから全然大丈夫です!(笑)
私は・・・、私は・・・、シン君様が苦しむ事は、もう1つたりとも嫌なのです。ですから・・・・」
 
「チェギョン・・・。貴女は・・・・、本当に天使のような子なのですね・・・。
その清らかな優しい心が、ミンの心の傷を癒し、シンの頑なな鎧を砕いてくれたのでしょう。」
 
 
 
これが、夫が自分の後継と願ったシンの為に、是が非でもと拘(こだわ)った妃の資質。
 
そう思うと、やはり我が夫は素晴らしい方だったと、思わずウキウキと嬉しくなった皇太后だが
こちらもやはり長年勤め上げた重責の任が骨身に染みた、知る人ぞ知る宮の女傑である。
そんな素振りは露も見せずに、厳かに、そしてにこやかに、孫嫁に向かって断言する。
 
 
 
「貴女の気持ちは解りました。しかし、新行は予定通りに行います。
・・・そんな悲しそうな顔をしなくても大丈夫です。
チェギョンや?年寄りが敬われるのは、ただ歳を取ってるからではないのですよ?
年寄りには、年の功という知恵があるのです。騙されたと思って私の言う通りになさい。
心優しい貴女に、きっと天帝の加護がありますよ?ん?」
 
 
 
そう言ってチェギョンの頬に優しく触れる皇太后の暖かな手は、不思議な安心感をもたらし
それまでハの字に寄せていた眉を元に戻したチェギョンは、ニコリと可愛らしく笑った。
 
それを見る皇太后もまた、国母とはこういうものだと思わせるような
全ての憂いを払い去る温かな笑みで見返す。
 
 
 
「お婆様!私、シン・チェギョンは
シン君様のお嫁さん初仕事、頑張ってまいりますっ!」
 
 
 
突然そう叫んだチェギョンに、些か顔を仰け反らせて硬直した皇太后は
次の瞬間、彼女らしからぬ豪快さで笑い出した。
 
 
 
(陛下?ご覧になりましたか? 
[天からの授かりもの] の孫もまた、同じ気質の者だったようです。
是よりは貴方様の残した言葉の通り、若い2人の行く末を見守っていこうと思います。
ですから貴方の許へ行くのは、もう少し先になりますが、待っていてくださいますね?)
 
 
 
慌てたように走り寄ってきた長身の凛々しい青年が、すぐさま肩を抱いて懐に入れたのは
オロオロと自分を心配していた清らかにも美しいその妻だった。
 
それを瞳に映しながら、皇太后は一層高らかに笑い出す。
 
己の憂いも惑いも、この一笑で払い飛ばさんとでもするかのように ――― 。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「イ家の嫁の心得を、少しばかりチェギョンに伝授していただけです。」
 
 
そう言って笑う祖母と、キョトンとした直後に、コクコク頷いた妻を見て
何かある・・と思うものの、この祖母がそれ以上教えてくれるとも思えなかった。
 
自分が目を離した隙に、愛妻を独り占めされた若干の悔しさを
祖母が呆れるほどの、妻とのスキンシップをしまくって紛らわせたシンだったが
祖母の言葉やチェギョンの言動の端々に感じる奇妙な違和感と、都度、鈍く痛む頭痛に
チカチカと何かが点滅しているような気がして、気になり始めていた。
 
 
そこで、帰宮したシンは、チェギョンをチェ尚宮に預けてから
キム内官を呼び出すことにした。
 
 
彼はあの火災の中で、シンを助けたイギサだった。
大火の中を、意識の無い5歳児2人(内1人は小学生並に大きかった)を抱えて脱出するのは
想像以上に大変な事で、その時負傷した怪我が原因で、イギサを続けることは出来なくなった。
元々コン内官からの信頼の厚さゆえ、彼から内々にシンの警護を任されていたという経緯もあり
後に内官として出仕を果たしたキムは、以来ずっと誠心誠意シンに仕えている。
 
シンにとっても彼は、自分の命を助けてくれた信頼出来る数少ない大人の1人であり
武術や馬術の指導教官としては、尊敬する存在でもあった。
 
 
 
「お呼びでございますか?殿下。」
 
「キム内官、忙しいところ済まないが、少し確かめたい事が出来た。
あの火災当時の事を、もう一度詳しく教えてくれないか?」
 
「え?あの時の事を、で ございますか?」
 
「そうだ。」
 
 
 
いつも冷静にハキハキと話す彼にしては珍しく逡巡する素振りを見せる事に
シンの胸騒ぎのような予感めいたものが、更に強まっていく。
 
 
 
「・・・キム内官。どんな事でも構わない。
あの日あなたが見たものを、思い出す限り全て教えて欲しい。」
 
 
 
決意に満ちた強い視線をピタリと据えられたキムは
ジットリと汗ばんだ掌を握り締めて、この件について禁忌とされてきた事を思い出していた。
 
1つは自分が助け出したのは、皇太子以外にもう1人いて、それが現皇太子妃だという事。
そしてもう1つは、その晩1人の女官見習いが自殺し、その遺書が罪の告白だったという事。
 
前者は皇太子殿下の心を守る為で、後者は宮を守る為であったが
大怪我をして入院していたベッドの上で、事の次第をコン内官から聞かされたキムにとっては
両者共に自分の人生を変える大きなキッカケとなっていた。
 
怪我の後遺症があるものの、後方支援という形でイギサに残る事は可能だった。
しかし、イギサでは主を完全には守りきれないと悟った彼は、必死に勉強し直して
難関である内官試験をパスし、それから直ぐに東宮付き内官となり、現在に至っているのだ。
 
以前コン内官が務めていた内偵を受け継いだキムを、呼び出す危険を冒してまで
聞きたいと言うのであれば、シンにはそれなりの覚悟があるということだろう。
 
 
 
「畏まりました。私の知る事の全てをお話いたします。」
 
 
 
決意を込めてそう言った内官の瞳に映るのは、クルリクルリと指を回しながら
静かな凪の中に、青白く揺らめく炎を宿した涼やかな瞳で自分を見つめる若き龍だった。