国内にはアートセンターを始めとした芸術文化関連施設を幾つも所有し
ヨーロッパの有名サッカーチーム・オーナーで、国際的に有名なバレエ団やオーケストラの
最大スポンサーにも名を連ねているスアム文化財団の長で元大統領の祖父を持つ俺は
5歳の頃、両親を交通事故で亡くしている。
 
同乗していた俺だけはかろうじて助かったのだが、ショックで精神を些か病んでしまい
あわや病院送りになるという一歩手前で、俺を暗闇から救い出してくれた女神がいた。
 
ミン・ソヒョン。
 
ミン財閥の一人娘で、俺達F4の1歳年上の姉的存在である彼女は
世界的に名の知れた売れっ子モデルであると共に、国際弁護士の資格も取得した才媛で
ボランティア活動にも熱心に取り組む、全てを兼ね備えた完全無欠の国民のマドンナでもある。
 
 
 
子供の頃、俺と現実を結ぶものはソヒョンで、だからソヒョンがいてくれれば安心出来た。
そんな精神安定剤のような彼女と1ヶ月も会えないのは耐えられないと
幼い俺は、バカンスの予定があると言った彼女を酷く困らせた。
 
 
 
「なんじゃ?それは?」
 
「マリオネット。」
 
「ほぉ?面白そうじゃっ!妾にも貸せっ!」
 
「だめ。」
 
「いいから、貸してみろ!」
 
 
 
プイッと背を向けた俺に業を煮やしたのか、パチン!と指を鳴らされた次の瞬間
当時のソヒョンが自分の代わりにと、俺にくれたマリオネットは彼女の手の中だった。
 
イラッとしながら睨みつけても意に介さず、つくしはマリオネットにそっと口付ける。
するとマリオネットはまるで生を与えられた小さい少女のように動き出した。
 
 
 
「すげ・・・」 
 
「ま、これくらいは、な♪」
 
 
 
驚いて思わず呟く俺に、フフンと得意そうに嗤う美少女が、ソファの上に並んで座り
2人の視線は人形に据えられたままで、互いを見ることはない。
 
彼女が妖という異形の者であることを、最近殆ど忘れていたことに
若干の動揺を覚えた俺は、チラリと横目で盗み見るものの中に
人外の痕跡を密かに探したが、やっぱりそんなものは見付からなかった。
 
別にそれが悪いってわけでもないと思い直して
彼女が作り出した奇妙な光景に視線を戻した。
 
つくしとは、こうして隣に座っていても不快じゃなくて、寧ろ心地良く思うことすらあって
独りが長かったという彼女は、独特の間合いで俺を構い、そして無視する。
 
今だって人形をジッと見ながら、俺なんかいないかのようにダンマリを決め込んでいる。
というよりきっと、自分と話すのに夢中なだけなのかもしれない。
 
 
 
「マリオネットとは、何とも物悲しいものだな・・・。」
 
 
 
その言葉と同時に、眼前で生き生きと動いていた赤毛の小さな女の子が
ズルッと四肢を不自然に折り曲げながら崩れ落ちて、ただのマリオネットに戻る。
 
「興が逸れた。」 と呟いたきり、抱え込んだ膝の間に顔を埋めて
微動だにしなくなったつくしと、崩れて動かない目の前の人形・・・・・・。
 
腹の底からせり上がるように、何か、言葉らしきものが出かかって、
しかし、意味を結ぶ前に呆気無く霧消した。
 
 
そうして室内は、またひっそりと静まり返った・・・。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
自分の誕生日パーティで、ソヒョンがどんな爆弾発言をするのかは、事前に知っていた。
全てを捨ててフランスへ戻り、韓国へはもう帰るつもりが無い事を告げられていたから・・・。
だから俺は自分に与えられた控え室に籠もって、あの時のマリオネットを弄っていた。
 
ソヒョンとの思い出、自分の彼女への想い・・・最初はそんな事を考えていたはずなのに
思考はいつの間にか、これを見て物悲しいと言い、あれから一晩中ボンヤリしていた
つくしの姿ばかりを、壊れた機械みたいに何度も繰り返し再生していた。
 
 
 
いつの間にか入ってきていたらしいソヒョンに気付いて視線を合わせると
その表情がいつも通り何も変わらないことに無性に腹が立って、捨てられた気分だ!と
吐き捨てるように彼女を詰った。それに対して自分に都合が良いようなことばかり言う彼女に
俺の苛立ちは、薪をくべられた炎のように火の粉を散らして一気に燃え上がった。
 
 
 
俺が助けた?あの子?
それを見て胸が苦しくなっただって?
 
 まるでジャンディに嫉妬しているような事を言って
そうやってまた俺を惑わすのかよ?
 
 
 
ソヒョンに良いように操られている気がして、手の中にあった人形を投げ捨て
俺を男だと、お前を抱きたいと思ってるちゃんとした男なんだと
目の前の、母親ぶった余裕を見せる傲慢な女に解らせたくなって、荒々しくその唇を奪った。
 
 
 
不思議な気持ちがした・・・・。
 
 
 
俄かに燃え上がった熱情は、水をかけられた様に一瞬で消え去り
触れ合っている粘膜の感触に、何かが間違っているような違和感を感じた。
 
ゆっくりと唇を離して直ぐに、俺の瞳に映り込んできたのは
慈愛の籠もった母のような顔をして、瞳だけを雌そのものに潤ませた顔・・・・。
 
 
 
無意識に顔を背けて目を閉じれば、無垢な少女の面影が揺らぐ。
 
(俺、今・・・。 なんで・・・・?) 
 
自分でも何故この瞬間に彼女の顔が浮かんだのか解らなかったけど
その面影が甦ると同時に、生理的な嫌悪に近い不快感が治まっていき
と同時に、何だか無性に早く帰りたくなった。
 
 
 
「ゴメン。手荒な真似して・・・・。 俺、帰るよ。」
 
「ジフ?」
 
 
 
ソヒョンの顔も見ないでそう言って立ち去ろうとした俺に、大丈夫だとか、嬉しかったとか・・・
俺の腕を掴みながら優しげに囁くその声の中に、女の媚のようなモノを感じて鳥肌が立った。
 
掴まれた腕の反対側の手で、彼女の手を乱暴にならない程度に払い落とし
ジックリと観察するような気持ちで、たった今まで恋焦がれていた筈の女の顔を凝視する。
 
 
 
美しさの欠片も無いと思った。
 
 
 
目の前の女と、俺達に群がって寄ってくる女と、何が違うって言うんだろう・・・?
俺は今までこの女の、何を見て、何処に惚れていたんだろう・・・?
 
そこにはただの、どこにでもいる、女という性を武器にした安っぽい女がいた。
敢えて違いを探すなら、この女は飛びぬけて傲慢だってことかもしれない。
 
 
 
自分の帰国を祝うパーティでジャンディを庇い、着飾る手伝いを自ら買って出て
彼女を苛める女共とは格が違うのだと見せつけたことも、さっき俺に言った事が本当なら
ソヒョンはジャンディに対して嫉妬のような感情がありながら、それをしたということになる。
 
ジャンディと仲良くしろと言い、母親か姉貴ぶって鷹揚に説教じみた事を言うくせに
こうして俺を、媚びるように言い募って引き止める姿は、“女” 以外の何者でもない。
 
 
 
さっきの自分の苛立ちの訳がやっと理解出来た気がした。
 
 
 
男として見てくれと言いながら、俺の本心は、ソヒョンを女として見たくなかったんだ。
本当にそれを求めていたなら、嫉妬してみせられることも、言動に矛盾があることも
甘言で追いすがってくるこの姿も、愛おしくて可愛いと思えるのかもしれないのに
実際目の当たりにしてみたら、そこには嫌悪感しか見出せなかった。
 
欺瞞に満ちた傲慢さを魅力的だと思うことは、俺には到底出来なくて
憧れていた偶像が、自分の目の前で跡形も無く崩れていく事に苛立っていたんだ。
 
 
 
「ごめん、ソヒョン。俺、勘違いしてたよ。俺はソヒョンを女として見てなかった。
ソヒョンは俺にとってやっぱり母親や姉貴みたいな存在だったんだ。
だから・・・、勝手なこと言うようだけど、今の事は全部忘れて欲しい。」
 
 
 
俺の言葉に目を見開いて驚いたような顔を、彼女がしたのはホンの一瞬で
プライドの高い彼女は直ぐに自分を立て直すと、ニッコリと優雅に微笑みながら
「私のジフが、やっと本当の大人の男になってくれて嬉しいわ。」と言った。
 
その言葉が何処までソヒョンの本心かは解らなかったけど
彼女からその言葉を引き出せたことに満足した俺は、うん、と1つ頷くと
もう心は家に帰ることで一杯になっていた。
 
 
 
だから、気が急くようにして開けたドアの先で・・・・
 
 
 
ジュンピョに肩を抱かれたジャンディが立っていて
俺自身はソヒョンに腕を貸しているような状況になっていて
その姿が、2組の恋人同士が鉢合わせしたように見えるものだったなんて、全く解らなかった。
 
 
 
「あら、ジュンピョ、ジャンディさん。パーティは楽しんでいただけたかしら?
私達これからドライブに行くのだけど、ご一緒にいかが?」
 
 
 
ジュンピョ達に顔を向けたまま、ソヒョンのその言葉に驚愕した。
そんな俺を見て、3人は其々おかしな反応をした。
 
ジュンピョは慌ててジャンディの肩をグッと引き寄せて
自分達も2人でドライブに行くんだと声を張り上げ、ジャンディもアタフタとそれに同意した。
何だか泣きそうな顔で俺を見つめながらも、ジュンピョと一緒に足早に去っていった。
 
その一部始終が行われる間、俺の腕に掴まっているような状態のソヒョンの手は
痛みを感じるほど強く俺の腕を握り締めていた。
 
 
 
「ねぇ、ソヒョン。俺達がドライブに行くなんて、何でそんな嘘をついたんだ?」
 
「嘘なんかついてないわ。ジフ、これからドライブに行きましょうよ。ね?いいでしょう?
私の韓国最後のデートを、ジフがエスコートしてくれたらきっと良い思い出になるわ。」
 
「・・・ソヒョン、俺今夜は本気で疲れてるから、もう帰って寝たいんだ。
その素晴らしい栄誉は、ウビンやイジョンに譲るよ。ごめん、マジで限界が近いみたい・・・。」
 
 
 
少しだけオーバーに疲れている事を強調すると、案の定彼女はあっさりと引き下がり
いつもの慈愛の籠もった(ように見える)眼差しで、理解のある姉のような口振りで
「仕方ないわね、その代わりに、パリで沢山デートしましょうね?」と・・・・・。
 
まるで俺がソヒョンを追いかけてパリに行くのが決定事項のように言うから
少し呆れて彼女を見ると、途端に俺の心臓が嫌な音を立てて軋んだ気がした。
 
 
 
家に帰ればいるはずの、本物の妖であるつくしのことを
恐ろしいと思ったのは最初の一瞬だけで、以降、本気でペットのような気分でいた所為か
驚く事は多かったけど、彼女に恐怖を感じた事はあれから一度も無かった。
 
今、俺の目に映る女の、貼り付けたような笑顔は酷く禍々しいもので
あいつには感じた事の無いほどの、寒々しい恐怖が全身を覆い尽した。
 
 
 
“ 妖怪よりも、人間の女のほうがよっぽど怖い。 ”
 
そう言ったら、あの美しい猫のような妖怪はどんな顔をするだろうか?
もしかしたら、バカにするなと怒り出すかも・・・?
 
 
 
怒ったあいつの顔が簡単に浮かんできて、その楽しい想像に俺はうっかり浸ってしまった。
だからソヒョンが、あの時どんな顔をしていたかなんて知らない。
 
さっさと帰宅の途についた俺の後を、彼女がつけて来ていた事も・・・・・。