居合わせた者達の無事を確認してホッと安堵の表情を浮かべた皇太子妃は
視界の隅に、イギサとこの会場のSPらしき者達に拘束された男達を見つけて
彼らにも同様に怪我は無かったか? と優しく声をかけた。
 
反対に彼女の傍らに立った皇太子の視線は怒りで燃え盛り、射抜くような激しさだったが
自分の腕にそっと自分の手を添えて、心配そうに見上げる妻を見て漸くの事で鎮まり
大きく一呼吸置いてから、報道陣に向けて話し始めた。
 
 
 
「妃宮について、先ずは幾つかの誤解を解きたいと思います。
妃になる者は婚姻前の入宮時より、四書五経、英語、社交マナー、宮中用語、祭事について等
訓育という教育を受けることが慣わしですが、妃宮は宮中用語と宮中独特の作法を学ぶ以外は
その必要が無いとして免除されました。あとのものは既にマスターしていたのです。
本人は復習が楽しいと言って、その時間を尚宮や皇后様、皇太后様、時には皇帝陛下も交えて
漢詩のやり取りだとか、内容の見直しだとかで更に知識を深めているようですが・・・。
それに・・・。彼女の所作の美しさは、皆さんの方がお分かりになるのではありませんか?」
 
皇太子の言葉は驚くばかりの内容だったけれど、新行を含めて今回で3回目となる
実際の皇太子妃の所作は、常に危なげなく優雅だったことを思い起こせば
彼の言葉に嘘がないことをその場の誰もが信じることが出来た。
 
ジックリと彼らを見渡して、その表情に納得の意を見て取ると、ここからが本題、とばかりに
皇太子はグッと姿勢を正してから、少しだけその良く通る低い声を張った。
 
「しかし、これは知識であって教養ではない。」
 
まるで此れまでの妃への賛辞とも取れるような発言を一転させるようなその一言に
彼らは内心首をかしげた。何故敢えて、妃の優秀さを否定するようなことを言うのだろう?と・・。
 
「例えば昔の人間の書いたものを読み、今の自分とは別の暮らし、別の価値観が存在したと
知ることが知識だとするならば、教養とはその知識から発展させて
自分だけの狭い価値観に囚われず、別の価値観を理解し
広い立場に立って判断できるということ。要するに知識を自分の物にしてそれを活かすことを
教養と言い、知識はそのままでは決して教養にはならない。
私は知識はあるが教養が無かった。そして私は教養というものを妻から学んだのです。」
 
?????
 
「先人の言葉で説明しましょう。古代ローマの哲学者の言葉にこんなものがあります。
その者は元奴隷でしたが、彼がそんな生い立ちだったからこそ、この言葉は意味深い。
 
“ 自分が不幸な時、他人を非難するのは無教養者。
 自分自身を非難するのは、教養の初心者。
 他人をも、自分をも非難しないのが、本当の教養人である。”
 
私は婚姻するまでは無教養者でした。そして妻を得て教養の初心者に漸く昇格できた。
彼女は最初からとても素晴らしい教養人だったのですが・・・。 クスッ」
 
何かを思い出したように楽しげに笑う皇太子に、質問を投げかけたいと思うのに
何故かその言葉が見つからないのは、何故だろうか?
彼の言葉を借りるならば、自分はどう考えても無教養者だと思うからかもしれなかった・・・。
 
「さて、もうひとつ、妻に暴言を吐いた者達の言葉には品格というものがありました。
品格とは何か? 上品、下品とはどういうことを言うのか? 
私達皇族は数多くの社交の場で諸外国の方々とこの国を繋ぐ架け橋のような役割を担います。
その際必要とされるのは適度な教養と、品格ある態度です。
社交マナーは確かに必要なことです。この国が野蛮な国民だと思われては敵いませんからね?
ですが、ただそれが完璧なだけで慇懃無礼な態度だったら・・・あなたなら、どう思いますか?」
 
突然指を指された記者は、一瞬戸惑ってからそんな状況に自分がいたら・・と考えてみる。
素晴らしく美しい所作で食事をする人々の中に、自分が放り込まれたら・・・・
そんなものに慣れていない自分はきっと馬鹿にされるに違いないし
小さな失敗すら嘲笑されて、きっとどんなご馳走でも味などわからないに違いない・・・・。
考えただけでもゲンナリとしながら、彼は 「針のムシロでしょうね・・・」 と力無く答える。
 
「では、質問を変えましょう。妃宮がその場にいたら、どうすると思いますか?」
 
「え?妃宮様が・・・?」 そう言ったきり黙りこんだ男の斜め後ろから挙手が上がり
皇太子が発言を許可すると、彼は恐る恐るという風に話し始めた。
 
「あの・・・、私の勝手なイメージで申し上げてもいいでしょうか?」
 
「どうぞ。」
 
「先日の公務の際、妃宮様は足に怪我をされたようでしたが
従者の方々や我々に対して心配をかけまいとされるかのように笑みを絶やされませんでした。
そんな妃宮様の姿に私は大変感銘を受け、娘にも妃宮様のように人を思い遣ることの出来る
優しい女性になってもらいたいと思いました。今も先ず我々の無事を確認してくださり
あんなことをした者達すら、その安否を気遣われた。驚いたことに、それは極自然で
わざとらしさの欠片も無かった。・・・こういうのを国母の器というのかと、感銘を受けました。
ですから、もしもその場に妃宮様がいらしたらきっと、慣れない私達の為に
色々と気遣って下さって、微笑みかけてくださるような気がします。
あの笑顔は素晴らしい。きっと私達はその笑顔に救われるに違いありません。」
 
「・・・・・困っている人をそのままにしない。
自分の置かれた立場を認識し、それに相応しい態度を心掛け、努力を惜しまない。
責任とは何かを理解していて、起こり得る結果に覚悟をもって行動する。
敬意と礼節を持って人に接し、それは相手がどんな立場の人であろうとも同等である。
時には人を叱り飛ばす勇気のある人で、嘘をつかず、何事にも誠実であろうとする。
そして・・・人を思い遣り、その人の身になって物事を考えられる。
此れが私の思う [品格] で、私が知る妃宮そのものです。」
 
皇太子妃の人柄に関しては多くの者が頷いて見せたが
それが [品格] だと言われると、皆は首を傾げざるを得ない。
皇太子は愛妻を守る為に、詭弁を弄しているのでは?という風に
僅かに眉間にシワを寄せた者も何人かいたが、皇太子は気にもとめずに話し続ける。
 
「マナーとは本来、共に過ごす人に快適な時間を提供する為のもので
それが時代の流れの中で、諸外国に対抗する手段になったり、国力の誇示に繋がった。
マナーが洗練された国の国民は教養があり優秀だ・・・などという様に・・・。
しかし、本来の品格とは正義感、責任感、倫理観、勇気、誠実、忍耐、節制で構成された
道徳的に優れた資質を持った者の事を言うのではないでしょうか?
社交のマナーは国によって様々に違いますが、その国に敬意を表していることを伝える為に
私達は事前にその国の事を学び、礼を尽そうと努力します。
ですが、どんなに完璧な所作で振舞おうと、心が伴わなければ意味が無い。
 
結局 [品格] も [教養] も
“弛まぬ努力で己を磨き、その上で、こころざまが豊かで優れている事を言う”
のであって家柄や血筋、そして此れまで受けてきた教育 [だけ] で
語られるべきではないのです。」
 
恐らくこの国で最も品格を問われ、それを求められるだろう人が思う品格とは
決して沢山並んだナイフやフォークの順番が解る事でも
大口を開けて笑わないように努力することでも無かった。
 
たった今皇太子が言った品格の定義に照らし合わせれば
民間出身のチェギョン妃は、十二分にその定義に適う品格を兼ね備えているように思われる。
 
またこれが愛妻を守る為の巧言ではないことは、チェギョン妃を前にして
一瞬たりとも彼女に品格が足りないと思ったことの無い彼らには良く理解出来た。
 
けれども1人、そこで挙手した男がいた。
皇太子はフッと瞳を和ませた後に、常の冷静な表情に戻って発言を許可した。
 
「私はイギリスとフランスに祖を持つ者です。
今、殿下が仰られたことは、我々の文化の熟成の過程を軽視した発言ではないでしょうか?」
 
「なぜ、そう思われるのでしょう?」
 
「両国は其々に様々なマナー発祥の国であり、また先程仰られたように
それらを隣国への国力の誇示として利用した歴史があるからです。
確かにマナーとはもてなしの心から始まり、それを形式化したものですが
それがいけない事だと思われているのでしょうか?」
 
「いいえ。そうではありません。歴史上そういう戦略が大切だったと理解しています。
先程も申し上げたように、自分だけの狭い価値観に囚われず、別の価値観を理解し
広い立場に立って判断できることが教養とするならば、マナーもまた、様々な価値観を容認し
その中で相手が心地良いと思われることを理解し、それに心を砕くものであるはず。
現在の外交は、自国の文化レベルを他国に脅威として見せ付ける時代ではなく
友好を示す為に敬意を持ち、それでいて自国の尊厳を守ることが必要とされる時代になった。
本来そういうものを理解する為に教養は存在し、それを潤滑に行う為にマナーが生まれたのなら
元々の姿に、 [もてなし/もてなされる心] を表現する為の存在に、戻してみてはどうだろう?
と考えているだけです。 一見平和に見えるがその実何層にも複雑に入り組んでしまった
この時代ならばこそ、[只管に純粋な良心] が在ってもいいと思いませんか?
政治は政治家の仕事ですが、私や妻の仕事はこの国の良心で在り続けることです。
そして、あなたが私と違う考えを持っていらしても、そこに誠意を持って応える努力を
惜しまないようにしたい。 それが、私の考える品格の在り方です。」
 
水を打ったように・・・・とは、こういう状況で使われるのだろうと思われる沈黙は痛いほどで
シン自身、この後の反応が少々不安でもあった。
 
政治に介入すべきではないが、自分の発言はそこに大きな影響を及ぼすことを
彼は良く知っていたのだから・・・・・。
 
喋りすぎただろうか・・・・?
深刻な外交問題にでもなったら、どう対処すれば良いのだろうか・・・?
 
表情に出すことの無い彼の不安を、正確に汲み取ったかのように
チェギョンの小さなぬくもりが、ギュッと自分の手を強く握り締めた。
そうされると根拠も無く安堵してしまうのだから、最早それは条件反射のレベルなのだろう。
 
うっすらと苦く微笑みそうになったその時、後方から大きな拍手の音がした。
 
するとそれが呼び水になったかのようにして、次々と拍手が沸き起こり
次第に大きくなっていくその音に紛れて、声援のような言葉がそこかしこから湧き出てきた。
 
 
 
伝わったのかもしれない・・・・・。
 
 
 
ズルリと平衡感覚を失いそうな、極度の緊張から解き放たれた弛緩のなかで
シンは傍らで自分を支えるようにして立つ、小さくて大きな存在に
此れまでメディアに映ったことの無い、素晴らしく甘く優しい微笑を向けた。